泉頭城(いずみがしら)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 後北条氏
 遺構  : 堀、削平地
 交通  : JR・伊豆箱根鉄道三島駅からバス
       「柿田川湧水公園前」バス停下車


       <沿革>
           『駿河記』によれば、弘治年間(1555〜58)に後北条氏によって築かれ、多目周防守・
          荒川清兵衛の2人が城将とされたとある。駿豆国境を守る境目の城として重要視され、
          その後も重臣級の武将が配された。
           天正七年(1579)に甲相同盟が破綻すると対武田の最前線となり、多目・荒川両氏に
          加え大藤氏などの重臣が守将として派遣された。同九年(1581)に戸倉城の笠原政尭
          が武田氏に寝返ると、泉頭城周辺の村々が武田軍の安井治太夫らによって焼き討ちに
          あったとされる。このとき、泉頭城で攻防戦があったかは定かでない。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、北条勢は山中城韮山城で迎撃する作戦
          をとったため、泉頭城の兵は両城へと移動した。このとき、北条方は城を破壊していった
          ともいわれるが、詳細は不明である。いずれにせよ、攻め手の豊臣勢は難なく泉頭城を
          接収したものと推測される。同役で北条氏が滅亡すると、泉頭城は廃城になったものと
          思われる。
           以心崇伝が記した『本光国師日記』によれば、徳川家康は泉頭の地をいたく気に入り、
          元和元年(1615)末に自らの隠居所を泉頭城跡に築くことを決定した。幕臣土井利勝や
          本多正純に縄張りの作成まで指示したものの、翌元和二年(1616)年早々に沙汰止み
          となり、家康は駿府へと移った。同年中に家康が死去したため、泉頭城が再び取り立て
          られることはなかった。


       <手記>
           国道1号線のすぐ脇にある柿田川公園が泉頭城跡です。すぐ麓の柿田川湧水群から
          はじまる柿田川は日本一短い一級河川であると同時に、日本三大清流の1つにも数え
          られています。
           主郭は残念ながら駐車場化して完全に均されてしまっていますが、その先には2条の
          堀切が残っています(そのうち1本は立ち入り不可)。主郭の峯の西側にも、2つ小谷を
          挟んで西曲輪(現貴船神社)、堂ノ口出丸という2つのエリアがあり、それぞれ削平地や
          堀、虎口様の遺構が認められる箇所があります。
           残念ながら、湧水群の美しさや公園としての環境の良さに比べて、城跡としての保存
          状況は芳しいとはいえません。ですが、真に見るべきは公園の東側にあります。園の
          南端付近から清水町図書館へ向かう階段を上った先の住宅地の中に、第六天曲輪と
          東曲輪のものと思われる堀跡が明確に残っているのです。
           このエリアは、尾根先の主郭および西曲輪に比して川べりの台地上というだけで要害
          性は著しく劣るのですが、面積は断然広く確保することができます。直線・直角を意識
          しており、もっとも新しく増築された部分であることは明らかです。おそらく、甲相同盟が
          破綻した際に、北条氏によって改修が加えられたのでしょう。また、家康が隠居城をここ
          に定めていたとしたら、メインエリアはやはりこちらに設けられていたのではないかとも
          推測されます。
           ちなみに、泉頭城は城跡としてもひと通り見るべきものが揃っていますが、湧水群の
          素晴らしさが、なんといっても一番の魅力です。家康も惚れたその美しさについては、
          こちらのブログに別途まとめてありますので、ご参照ください。

           
 泉頭城跡説明板。
主郭先の堀切跡。 
 第六天曲輪南東隅の堀跡。
第六天曲輪東辺の堀跡。 
 東曲輪南東隅付近の堀跡。
東曲輪南辺の堀跡。 
 貴船神社。
神社脇の堀跡。 
 神社脇下の削平地。
 公園内で唯一明確な曲輪跡遺構と思われます。
堂ノ口出丸跡現況。 
 堂ノ口出丸先端付近の虎口状地形。
船着場跡のようす。 
 おまけ:城下に広がる柿田川湧水群の風景。


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