長浜城(ながはま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 北条氏政か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、石積み | |
交通 : JR沼津駅からバスに乗り、「長浜城跡」下車 | |
<沿革> 長浜に「船掛庭」の普請を命じた天正七年(1579)十一月七日付の文書があり、これが 長浜城に関する史料上の初出とされる。この年、北条氏政は越後上杉氏の跡目争いで ある御館の乱を受けて武田勝頼との同盟を破棄しており、駿河の武田水軍に対する備え として、長浜の重須湊を軍港として取り立てたものとみられている。ただし、長浜城がこの とき新規に築城されたものであるかどうかは賛否両論ある。翌十二月には、北条水軍の 将である梶原景宗が長浜に派遣された。 翌天正八年(1580)、駿河湾の千本浜沖で北条・武田間の海戦が行われた。北条方の 軍船は長浜から出港したものと思われるが、勝敗はつかなかったとされ、長浜城が攻め られることもなかったとみられる。 天正十年(1582)、武田氏は織田信長に攻め滅ぼされ、駿河国の大部分は徳川家康に 与えられた。同年中に本能寺の変が発生し、続く天正壬午の乱を経て、北条氏は徳川氏 と和睦し、婚姻関係を結んだ。これにより、長浜城の戦略的価値はほとんど失われた。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、現地の土豪とされる大川兵庫らが長浜城を 守ったとされる。しかし、伊豆の主城である韮山城は豊臣方にあっさりと包囲されており、 長浜城で戦闘があったかどうかは定かでない。同年中に北条氏が滅ぶと、長浜城もその まま放棄されたものと推測されている。 <手記> 長浜城は、伊豆半島の最も付け根に位置する内浦湾に突き出た岬の城です。内浦湾 は長井崎や淡島に囲まれた穏やかなな入り江で、水深もあるということから今も漁港や ハーバー、養殖場として使われています。国の史跡に指定され、史跡公園としての整備 も進められ、東麓には駐車場も用意されています。 とくに主郭(一の曲輪)と副郭(二の曲輪)の整備状況は素晴らしく、海越しの富士山の 景色も美しいので、城好きでなくても楽しめるでしょう。建物跡は地表復元され、外郭の 塁や曲輪間の堀跡は整えられ、簡素な櫓も推定(模擬?)復元されています。 城は一から四の曲輪まで連郭式に細長く並び、さらに主郭から岬の先端側に腰曲輪 が連続する構造となっています。堀切を虎口とし、さらに喰い違いと横矢を重ねるなど、 主郭周辺は技巧に富んでいるものの、全体の規模としてはそれほど大きいとはいえま せん。海路を侵入する敵に備えるという意味では、これで十分との判断だったのだろう と推察されます。 また、当時は城から峰続きだったと思われる光明寺裏山には、網代山砦と岩尻山砦 という2つの砦が見つかっています。長浜からひと山越えれば長岡・韮山なので、この 3城砦のラインと三津新城あたりで時間を稼げれば充分という判断だったのかもしれま せん。 ちなみに、城山から道路を挟んだ反対側には農産物直売所があります。特産の柑橘 を使った、重須と同じ読みの「想酢」というビネガーが販売されていて、おすすめです。 突き抜ける感じの、はっきりした酸味が特徴で、料理に使うとキレが出ます。 |
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主郭(一の曲輪)のようす。 | |
主郭からの眺望。 | |
主郭と副郭(二の曲輪)の間の復元櫓。 | |
櫓から二の曲輪を俯瞰。 | |
一の曲輪と二の曲輪の間の堀切。 | |
二の曲輪のようす。 | |
二の曲輪と三の曲輪の間の堀切。 3本の柱は橋兼城門とみられる柱穴の地表復元。 |
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同堀切兼城門に至る喰い違い虎口。 | |
三の曲輪。 手前は弁天社境内として削られているそうです。 |
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三の曲輪と四の曲輪の間の堀切。 | |
四の曲輪。 | |
主郭下、岬先端方面の腰曲輪群。 | |
同腰曲輪群を下から見上げる。 | |
城山西麓で検出された石積みの地表復元。 堤防跡とみられています。 |
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重須湊にも置かれたといわれる安宅船の 原寸地表モデル。 |