三津新城(みとしん)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 北条氏政か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR沼津駅からバスに乗り、
      「内浦学校前」下車徒歩50分


       <沿革>
           現代になって確認された城跡であり、史料や伝承にはみられない。長浜城発端頂砦
          出城ともに、武田氏と対立した後北条氏によって天正七年(1579)ごろに築かれたと推測
          されているが、詳細は不明である。


       <手記>
           伊豆半島内浦湾の背後にそびえる発端丈山の稜線上の、北東端のピークに築かれて
          います。山頂へ向かへば、出城、発端頂砦、三津城と続きます。ただし、三津城について
          は史料上南北朝時代にしか使われておらず、遺構の状況からも北条氏に取り立てられた
          かどうか、個人的には懐疑的です。
           ピークの主郭は広さがあり、発端丈山の城砦群では唯一まとまった兵数を駐屯させられ
          ます。規模も三津新城が最も大きく、主たる役割を担っていたものと推察されます。縄張り
          はそこまで複雑ではなく、主郭の下に2段の帯郭があり、さらにその下に2段ほどの腰曲輪
          が一二三段式に連なっています。工夫らしい工夫は、帯郭から伸びている大手と思われる
          堀底道の付け根が、土塁に挟まれた虎口となっているくらいです。
           また、主郭の奥には櫓台状の土塁が付属しています。ただし、ここに高層建築が乗って
          いたかどうかは、怪しいところです。主郭の背後はやや不明瞭な地形が続き、少し歩いた
          ところに尾根筋を切る堀切と竪堀が認められます。
           さて、北条氏が発端丈山山頂の三津城を取り立てた形跡はなく、三津新城に一番手を
          加えているのはほぼ疑いありません。後北条氏は、峠越えのルート沿いを除けば基本的
          にあまり高所の城を好まない傾向があるように思われます。発端丈山についても、海から
          侵入してくる武田氏に備え、伊豆の主城である韮山城へ逸早く連絡し、後詰の到着まで
          持ち堪えるという主目的からすれば、わざわざ発端丈山の頂上に城を設ける必要はない
          との判断だったものと拝察されます。

           
 長浜城から発端丈山を望む。
 緩やかな稜線の左端が三津新城。
 そのひとつ右が出城。
 画面中央上部のピークが発端頂砦。
 その右側の稜線右端付近が三津城。
最後尾の堀切。 
 同じく竪堀。
主郭のようす。 
 主郭の奥に付随する櫓台状土塁。
主郭と帯曲輪の間の土塁。 
 同じく主郭の土塁と帯曲輪。
帯曲輪から延びる堀底道。大手虎口か。 
 2段目の帯曲輪。
帯曲輪下の腰曲輪群を下から見上げる。 
 同上。
腰曲輪のようす。 
 おまけ:城背後の尾根筋からの眺望。


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