門根城(かどね)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 堀氏か
 遺構  : 土塁か
 交通  : JR琵琶湖線米原駅よりバス
       「息郷小学校前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           在地領主堀氏の城とされている。堀氏は菅原氏の後裔で、近江国浅井郡堀村を領したことにはじまる
          と伝わる。堀氏が坂田郡門根にいつごろ移ったのかは定かでないが、文明四年(1472)に鎌刃城の堀
          次郎左衛門尉が今井秀遠に攻められたことが史料にみられる。
           『浅井三代記』には、永正十五年(1518)のこととして堀能登守頼定が樋口氏と共に「門根村の城」に
          立て籠もったとある。これが門根城とみられる初出であるが、堀頼定なる人物については一次史料から
          は確認できない。『淡海國木間攫』によれば、堀秀村の祖父で堀元積の父とされる。門根城の背後には
          地頭山城があり、『坂田郡誌』では「門根の城」ではこちらも含まれる可能性を示唆している。
           門根城の比定地は、現在の息郷小学校から小川を挟んだ反対側周辺とされている。中山道脇にある
          八幡神社の裏には、人工と見られる土塁状遺構が南北に長く残っており、これを門根城の遺構と考え
          ているようである。


       <手記>
           門根城の遺構といわれる八幡神社裏の土塁は確かに城郭遺構によく似ていますが、これを中世城館
          の土塁の痕跡とするのは、少々早合点なように思います。まず第一に、中世城館の土塁にしてはやや
          高すぎる感が否めません。第二に、仮にこの土塁を館のものとすると、地方豪族にしては相当に規模の
          大きな城館になってしまうように見受けられます。第三に、比定遺構のど真ん中を中山道が貫通している
          ことです。当時の東山道が走っていた位置にもよりますが、居館の中心を幹線道路が縦走していたとは、
          常識的に考えにくいように思います。
           ただ、この土塁遺構が人工的かつ防御的であることは確かなので、あるいは館ではなく関所のような
          防衛施設だった可能性も考慮に入れる必要があると思います。実際に、ここから東山道を東に進むと、
          梓の関川の関、さらに行けば不破の関といくつもの関所が連なっています。
           地頭山城については、古い資料には鎌刃城に代わる堀氏の城と説明されています。しかし、近年の
          調査で鎌刃城の先進性が明らかになったことから、これは順序が逆で、堀氏は地頭山城から鎌刃城
          へと進出していったと考えられています。
           
           ≪追記≫
           地元にお詳しいGishosunさまから情報をお寄せいただきました。それによりますと、名神自動車道と
          工業団地の建設により、地形が大きく切り崩されているのだそうです。上の地図の緑丸のあたりまで、
          鎌刃城から続く丘陵が延びていて、3〜4箇程度の曲輪の跡がみられたそうです。すなわち、門根城は
          土塁に囲まれた居館ではなく、舌状の尾根先端を利用した城砦であったことになります。また、土塁の
          狭間を貫通しているように見えた旧中山道は、かつての堀切の跡だろうとのことでした。地元の話では、
          江戸時代以前の東山道は、名神高速の南側を走っていたそうです。
           そうなると、遺構はほぼ消滅してしまっていて、せいぜい現在目にしている斜面が切岸である可能性
          が残るのみでしょう。開発自体は仕方ないこととしても、記録が残っていないのは残念なところです。
           貴重な情報を送っていただいたGishosunさまには、篤く御礼申し上げます。

           
 八幡神社裏の土塁状地形。
八幡神社から中山道を挟んだ反対側の土塁状地形。 
辛うじて残った旧地形であれば、切岸の可能性もあるでしょうか。 
 八幡神社から地頭山城を望む。


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