鎌刃城(かまは) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 堀氏か | |
遺構 : 曲輪、石垣、土塁、虎口、堀切など | |
交通 : JR琵琶湖線米原駅よりバス 番場停留所下車徒歩40分 |
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<沿革> 鎌刃城が初めて文献に登場するのは、文明四年(1472)に、今井秀遠が鎌刃城に堀次郎左衛門尉 を攻めたというものである。鎌倉時代には、鎌刃城の麓の番場は土肥氏の所領であったが、『近江国 坂田郡郷士在名牒』では鎌刃城主堀氏と番場城主土肥氏が明確に区別されているため、鎌刃城の 築城者は堀氏と考えられている。 戦国期に入り、京極佐々木氏と六角佐々木氏の争いが激化すると、鎌刃城は江北と江南の境目の 城として、近隣の佐和山城や太尾山城などと同様度々戦場となった。天文七年(1538)には、六角方 の今井定清に攻められ陥落している。後に堀氏が六角氏に降ると、再び鎌刃城主に迎えられた。 京極氏にかわって浅井氏が台頭すると、堀氏は浅井氏に従い、鎌刃城は対六角氏の前線となった。 元亀元年(1570)に浅井長政が織田信長に叛旗を翻すと、長政は上平寺城と長比城を築いて近江へ の街道を封鎖し、長比城の守将に堀秀村と堀氏家老樋口直房を入れた。 しかし、直房は知己であった竹中重治の調略により織田方へ降り、長比城を明け渡すと鎌刃城へと 退いた。秀村も直房の説得に従って長比城を去り、長政の封鎖作戦は呆気なく瓦解した。 翌元亀二年(1571)には浅井井規ら5千の兵が鎌刃城へ攻め寄せ、一時は落城寸前まで追い詰め られるが、横山城の木下秀吉の援軍により陥落を免れた。以降、堀・樋口両氏は秀吉に従い、湖北の 重鎮としての扱いを受けたようで、今残る鎌刃城の遺構もこの頃に整備されたものと考えられている。 ところが、浅井氏滅亡後、越前木ノ目峠で一揆の鎮圧にあたっていた直房は、無断で一揆勢と講和 を試み撤退したことで一転秀吉の追討を受けた。直房は甲賀へ逃亡するも捕らえられ、一族ともども 成敗された。これにともなって、旧主秀村も改易された。 鎌刃城はその後もしばらくは機能していたようであるが、天正三年(1575)に城内の備蓄米が徳川 家康に下賜されたのを最後に記録が途絶えており、この直後に廃城されたものと考えられている。 ちなみに、秀村と「名人久太郎」で知られる堀秀政の関係は詳らかではない(秀政は美濃出身)。 <手記> 鎌刃城は、中山道番場宿を見下ろす峻険な峰上に築かれていて、近年大規模な発掘調査により、 安土城築城以前の遺構でありながら織豊系城郭の築城法が取り入れられていたことが判明し、一躍 有名になった城です。 名神高速の薄暗いゲートをくぐってひたすら山中の尾根を進むため、はじめは不安でロンリーな気分 に襲われましたが、遺構が散見しはじめてからは期待に違わぬ残存ぶりに興奮の連続でした。曲輪を めぐる石垣の多くは保存のため埋め戻されたということですが、虎口部分の発掘復元された石積みなど は、戦国の城郭としてとても貴重な資料であると思います。また曲輪内の樹木を整理したり、水の手を 引いていた樋を、簡単ながら外観復元しようと地元の方が努力されているさまも随所に見られ、今後の 保存活動がさらに期待されます。 残念なのは、やはり行政のタッチが弱いようで、本城背後の7条におよぶ堀切群などは、城秋にして なお草木深しという感じで残念ながら見学不可能な状況でした。 搦手の切通から水の手の清龍滝へ回り、そこから林道を伝って下山しましたが、この林道は遠回りの 上何の面白みもないので、滝まで来たら引き返すルートを時間的にもお勧めします。 登城する前に飲み物を買った商店の方の話では、熊は出ないと思うが猿がいるので、鈴や笛などの 鳴り物は必携だろうとのことです。私は岩櫃城で熊に遭って以来、山城へは必ず鈴を持っていきます。 |
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鎌刃城遠望。 | |
登城途中にある土橋。 | |
本城域北端の堀切(通称「大堀切」)。 | |
本城域西側斜面の通称「大石垣」。 | |
北Y曲輪(仮称)の石垣。 | |
北Y曲輪の大櫓跡。 | |
北Y曲輪の升形虎口石垣。 | |
佐和山(彦根)方面の眺望。 | |
主郭虎口を見上げる。 | |
主郭虎口の復元石垣。 | |
主郭部。 | |
主郭背後の堀切。 | |
搦手を兼ねた最後部の切通。 | |
水の手を引いていた清龍の滝。 |