松尾城(まつお) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小笠原貞宗か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR飯田線毛賀駅徒歩35分 | |
<沿革> 築城の経緯は明らかでないが、一説には南北朝時代初期の信濃守護小笠原貞宗によって 築かれ、貞宗の次男宗政が隣接する鈴岡城を築いたとされる。伊那郡伊賀良荘は小笠原氏 の信濃における本貫的な所領であったが、守護所は府中井川館にあったため、実際に城砦 が営まれていたかは定かでない。 応永七年(1400)の大塔合戦を経て小笠原長秀が守護職を解かれると、長秀の弟の政康が 信濃守護を継いだ。嘉吉二年(1442)に政康が没すると、跡を長男宗康が継いだが、これに 長秀の兄長将の子持長が反発し、松尾城に拠った宗康と対立した。したがって、遅くともこの ときまでに、松尾城が築かれていたことになる。文安三年(1446)、持長は漆田原の戦いで 宗康を討ち取ったが、宗康は合戦に臨んで自身に万一のことがあれば、家督を弟の光康に 譲ると書き遺していた。持長の府中小笠原氏と、光康の松尾小笠原氏の惣領争いはなおも 続くことになった。 宗康には遺児があり、成長して政秀と名乗ると、鈴岡城に拠って他の2家と比肩する勢力と なった。ここに、信濃守護職と惣領を巡る小笠原氏の内紛は、三つ巴の相克となった。 文明十二年(1480)、政秀は光康の子家長を松尾城に攻め滅ぼした。幕府からも信濃守護 として認められたものの、府中小笠原氏麾下の諸国人の支持を得られず、持長の孫長朝を 養子として府中家と和睦した。 明応二年(1493)、政秀は家長の子定基によって暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅んだ。養父 殺害を受けて、府中の長朝が松尾城に攻め寄せたが、定基は撃退に成功した。 天文三年(1534)、定基の子貞忠は、長朝の孫長棟に松尾城を攻め落とされ甲斐国へ逃亡 した。小笠原家を統一した長棟は、次男信定を鈴岡城に入れた。松尾城は、鈴岡城の支城と なったものとみられる。 天文二十三年(1554)、武田晴信(信玄)が下伊那へ侵出すると、武田氏に身を寄せていた 貞忠の子信貴は鈴岡城攻めで功を挙げ、松尾城を奪還して松尾小笠原氏を再興した。 信貴の子信嶺は、天正十年(1582)の織田信長による武田攻めに際し、織田氏に臣従した。 同年の天正壬午の乱では徳川家康に属し、所領を安堵された。乱後、信嶺は飯田城に進出 した下条頼安と所領を巡って対立し、数度の合戦に及んだが勝敗は決まらず、頼安が信嶺の 娘を娶って和睦した。しかし信嶺は、天正十二年(1584)正月に年頭の挨拶で松尾城へ伺候 した頼安を殺害した。 天正十八年(1590)、家康が関東へ移封となると、信嶺は本庄城主となった。これにより、 松尾城は廃城とされた。 <手記> 松尾城は、毛賀沢川とその支脈によって形成された舌状の丘陵を利用した城です。対岸の 鈴岡城跡とは歩道橋で結ばれていて、両城跡とも史跡公園として整備されています。また、 駐車場も両方にあるので、どちらかに停めて歩いて両城を訪ねるのがよいでしょう。 高遠城や春日城などと構造が似ている鈴岡城に対し、松尾城の縄張りは飯田城との類似 が指摘できるように思います。鈴岡城の方が技巧性に富んでいる一方、規模では松尾城が 圧倒的に上といえます。なにより、家臣団屋敷など根小屋を営むスペースが確保されている のが、鈴岡城に対する松尾城の大きな特徴です。三の郭以下は大部分が宅地や畑地など に転用されていますが、段差や区画、堀跡などに名残を見いだせるでしょう。小笠原信定が 一時的に鈴岡を居城としていた以外は、やはり松尾城の方が、本城とみなされていたものと 拝察されます。 ちなみに、今では橋で簡単に鈴岡城と往来できますが、毛賀沢の谷はかなり深く、当時は お互い直接攻撃するのは困難だったでしょう。とはいえ、これだけ指呼の間で2勢力が対峙 するという例は、なかなかないのではないでしょうか。ふと、ドイツのリーベンシュタイン城と シュテレンベルク城の話を思い出しました。こちらはあくまで伝説で、実際に隣同士で戦った ことはないようですが。 |
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二の郭の空堀。 | |
同上。 | |
二の郭上段のようす。 | |
二の郭から堀越しに三の郭跡を望む。 | |
本郭の堀切。 | |
本郭の城址碑。 | |
本郭内を俯瞰。 | |
本郭の堀切から続く竪堀。 | |
腰曲輪跡。 | |
鈴岡城跡との間の谷に架かる歩道橋。 |