笠間城(かさま)
 別称  : 桂城
 分類  : 山城
 築城者: 笠間時朝
 遺構  : 櫓、石垣、曲輪、土塁、堀
 交通  : JR常磐線友部駅またはJR水戸線笠間駅
      から「かさま観光周遊バス」に乗り、
      「日動美術館」下車徒歩15分


       <沿革>
           笠間城のある佐白山には、鎌倉時代初期に正福寺があり、布引山(現城里町)の徳蔵寺と
          激しく対立していた。徳蔵寺が三百坊と称されていたのに対し、正福寺が笠間百坊と呼ばれ
          劣勢であった。元久二年(1205)、正福寺は下野守護宇都宮頼綱に助けを求め、頼綱は甥の
          時朝に手勢を与えて救援に向かわせた。時朝は佐白山の麓に城を構え、正福寺と連合して
          徳蔵寺を討った。しかし、まもなく徳蔵寺とも対立し、佐白山を襲撃した時朝は寺院を廃して
          その跡に城を築いた。これが、笠間城のはじまりとして広く流布している伝承である。ただし、
          時朝の生年は同元年(1204)と推定されている。そのため、『日本城郭大系』などでは両寺を
          倒して城を築くまでの経緯は、時朝の父で頼綱の弟の下野国川崎城主塩谷朝業の事蹟と
          する見解を示している。この場合、朝業が地ならしをしたところへ、朝業次男の時朝が開発
          領主として配されたことになる。いずれにせよ、時朝が笠間氏の初代であることには変わり
          ない。
           南北朝時代の当主泰朝は南朝に属し、北朝方の佐竹氏の一族小瀬義春に攻められた。
          笠間城に籠城した泰朝は佐竹勢の撃退に成功したが、後に北朝に降っている。
           笠間氏は宗家である宇都宮氏の家臣という立場であったが、戦国時代に入ると独立した
          行動をとることも多くなった。18代当主笠間綱家は、天正十八年(1590)の小田原の役後に
          主君宇都宮国綱に攻められ、討ち取られたとも城を失って落ち延びたともいわれる。従来の
          説によれば、綱家が後北条氏に通じたためとされるが、近年では国綱が家中統制のため、
          豊臣秀吉の内諾を得て討伐に及んだものと考えられている。こうして400年近く続いた名族
          笠間氏は呆気なく滅び、笠間城には宇都宮家臣玉生勝昌が入れられた。文禄四年(1595)、
          勝昌の子範昌は玉生氏のもともとの居城である岡本城へ移った。笠間城には城代が置かれ
          たものとみられるが、詳細は定かでない。
           慶長二年(1597)、国綱は突如として改易となり、翌三年(1598)に蒲生氏郷の子秀行が
          会津92万石から宇都宮18万石へ大幅な減封のうえで移封された。笠間城には、蒲生郷成
          が3万石で入城した。蒲生家の時代に、近世笠間城の原型が整えられたとされる。
           慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いでの功により秀行は会津60万石へ返り咲き、松平康重が
          騎西城2万石から笠間城3万石へ加増・転封となった。同十三年(1608)には、康重は丹波
          篠山5万石へ移封となり、代わって小笠原吉次が佐倉から笠間に入封した。しかし、吉次は
          翌十四年(1609)に配下の甲斐武川衆と争いを起こして改易となり、笠間は天領となった。
           慶長十七年(1612)、戸田松平康長が古河から笠間3万石へ移され、笠間藩が復活した。
          その後、永井直勝、浅野家2代、井上家2代、本庄家2代、井上家2代と目まぐるしく藩主家が
          替わり、延享四年(1747)に牧野貞通が延岡から8万石で入封するに及んで、ようやく安定を
          みた。以後、牧野家が9代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           標高205mの佐白山に築かれた笠間城は、明治維新まで存続した貴重な近世山城の1つ
          です。天守曲輪など、一部に関東では珍しい石垣を用いた城としても知られています。公共
          交通機関を利用する場合は麓から歩いて登らなければなりませんが、、車であれば山上の
          主城域入口にあたる大手門手前の千人溜まで上がることができます。
           笠間城の特徴の1つは、山頂の天守曲輪一帯と、そこから20mほど下った先の本丸一帯が
          深い堀切で断絶されていて、それぞれ高い独立性をもっていることです。天守曲輪の石垣は
          穴太積みの技術をもつ蒲生氏時代のものでしょうが、縄張りには中世の名残が色濃く残って
          いて、織豊期から江戸時代への過渡期の築城法を物語っているように思われます。
           天守台には、天守の解体時に建材を転用して建てられたと伝わる佐志能神社が鎮座して
          います。天守の存在は『正保城絵図』に描かれていることからも確実と考えられていますが、
          二重であったこと以外の詳細は不明だそうです。先述の堀切から脇道に入り、天守曲輪の
          背後へ回ると、石切場であったとみられる岩場に出ます。ところどころに矢穴の残る巨岩が
          横たわり、おそらく曲輪形成はされていないものの、城に由来する場所として見ごたえはあり
          ます。ただ、私自身は矢穴にはそこまでウェイトを置いておらず、同行していた城仲間の方が
          矢穴大好き女子で大いにハッスルしていました。
           本丸は主城域で最も広大な曲輪で、城外側の南辺にのみ高土塁が設けられ、その中途
          には曲輪内を仕切るように八幡台櫓が張り出していました。この八幡台櫓は、城下の真浄寺
          に移築され、改変は受けているものの現存しています。
           城内には天守曲輪のほか3か所に石垣が残っています。そのうち2つは本丸表門と大手門
          で、残る1つは本丸西側下の谷地形の土留めに使われています。この土留め石垣は、谷を
          堰き止めることで溜め池状の井戸を形成する目的で築かれているようですが、規模も大きく
          とても見ごたえがあります。千人溜から大手門を抜けずに右折して、山道をしばらくスライド
          すれば行きつくのですが、事前に縄張り図を持っていないと分からないような穴場の場所に
          あります。アップダウンはなく道中は楽ちんなので、城郭ファンであれば忘れずに訪ねておき
          たいところです。
           さて、笠間は水戸平野と栃木平野のちょうど中間付近にある小盆地です。その交通上の
          重要性は、地図を開けば周辺を含めても8万石もあったとはとても思えないにもかかわらず、
          牧野家が譜代では突出した高禄を領していたことからもうかがえます。逆にいうと、戦国期
          には宇都宮氏と佐竹氏という二大勢力の境目にあって、笠間城や笠間氏に戦いの記録が
          ほとんど見られないのは個人的に驚きです。笠間氏自体も、益子氏と並んで高い独立性を
          保っていたように見受けられるあたり、かなり高度な政治力を備えていたのではないかと
          拝察しています。

           
 天守台の佐志能神社。
天守曲輪の石垣。 
 同上。
天守曲輪と本丸の間の堀切。 
 同上。
八幡台櫓台を望む。 
 八幡台櫓台から本丸内を俯瞰。
本丸と南辺の高土塁。 
 堀切付近の土塁。
本丸西端の宍ヶ崎櫓跡。 
 本丸門跡。
大手門跡。 
 大手門手前の蔀状土塁。
千人溜。 
 本丸西下の土留め石垣。
天守曲輪東下の石切場跡。 


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