柏の城(かしわ)
 別称  : 志木館
 分類  : 平山城
 築城者: 大石顕重か
 遺構  : 堀跡
 交通  : 東武東上線柳瀬川駅徒歩10分


       <沿革>
           聖護院門跡道興准后が文明十九年(1487)に編纂した『回国雑記』に、「大石信濃守
          といへる武士の館」とあるのが初見とされる。大石信濃守こと大石顕重の館については、
          眺望に優れ、「数千里の江山」が目の間に広がるとあることから、高月城を指していると
          する説も有力である。顕重が築いたのかどうかは不明であるが、平安時代に在原業平
          あるいは田面郡司長勝なる人物が柏の城の西の丸あたりに館を営んでいたとする伝説
          がある。
           出典は不明だが、大永四年(1524)時点で大石信濃守政吉が城主であったとされる。
          ただし、現代に伝わる大石氏の諸系図に政吉の名はみられない。
           永禄四年(1561)、柏の城は上杉謙信によって攻め落とされたとされるが、一次史料
          からは裏付けられていない。このとき、上杉軍は城の南東に陣を張ったとされ、近年まで
          「陣場」の小字が残っていたとされる(現在の本町6丁目付近)。柏の城の東の宝幢寺の
          寺伝によれば、当時の城主は「大石信濃守」で、落城後にその子大石四郎の屋敷跡に
          同寺が移転したとある。伝承によれば、信濃守は敗れて自害しようとしたところ、捕えら
          れて斬られたとされる。
           『新編武蔵国風土記稿』では、柏の城主として大石越後守の名を上げている。越後守
          として知られる人物に、駿河国獅子浜城主を務めた大石直久がある。直久は滝山城主
          大石定久の孫とされる(定久は顕重の孫とされる)。
           天正十八年(1590)、小田原の役で他の北条方の諸城とともに豊臣軍に攻め落とされ
          たとされる。ただし、このときの城主が直久であったかは不明である(存命であったかも
          含めて)。役後、徳川家康が関東に入封すると、徳川家臣の福山月斎が周辺の地頭と
          なったが、城の処遇については不明である。


       <手記>
           柏の城は、柳瀬川に突き出た舌状台地に築かれていたとされる城です。本丸は志木
          第三小学校付近にあったとされ、校門前の道路に沿って城址標柱と説明板が立てられ
          ています。また、西の丸跡とされる長勝院境内には、樹齢四百年以上の旗桜と説明板
          があります。
           江戸時代中期に書かれた『館村旧記』によれば、城の中心には堀で囲まれた本丸と
          二の丸が並立し、本丸の西には西の丸、南には三の丸が巡っていたとされています。
          三の丸以下には家臣団屋敷が営まれていたようで、宮原氏や岸氏といった姓が散見
          されます。『旧記』の著者も宮原氏の子孫とされ、これらは、大石氏の家宰であったもの
          と推測されます。
           小学校南のマンション裏手には、側溝と見間違いそうな堀跡があります(上の地図に
          緑線で示したあたり)。地図中にもある歩行者用通路脇に、「大堀跡」として説明板が
          設置されています。『旧記』の図に「三之丸大堀」とある事実上の外堀とほぼ合致し、
          説明板のあるあたりがちょうど大手にあたるようです。付近は発掘調査がなされ、絵図
          には描かれていない堀の折れが見つかっているそうです。このことは、柏の城が北条
          氏時代まで下って使用されていたことを示す重要な手がかりといえると思います。
           小学校前にはごく浅い谷があり、その手前に東門があったとされています。この谷は、
          『旧記』によれば三之丸大堀から続く天然の堀で、沼や谷戸田だったようです。
           さて、柏の城については大石氏の城であったことはほぼ確実と思われますが、詳しい
          経緯についてはいくつか疑問が残ります。そもそも、大石氏は秋川や浅川流域(現在
          の八王子市周辺)に勢力をもっていた一族です。大石氏が柏の城周辺まで勢力を拡大
          していたとすると、西は陣場山から南は多摩横山、そして北東端を柏の城周辺とする
          戦国大名並みの支配領域を有していたことになります。これらの点を結んだ範囲内を
          まるまる治めていたとは考えにくく、柏の城周辺や多摩横山などは一族が入植したり、
          守護代として主家上杉氏から与えられた飛び地だったのではないかと私見ながら考え
          ています。柏の城城主の大石政吉も、多摩横山の大石氏館館主と伝わる大石宗虎も、
          ともに大石氏の系図にはみられない名であることも、それがためと推測することも可能
          と思われます。ただ、柏の城に関しては、柳瀬川上流の滝の城も大石氏が築いたもの
          とする伝承があるため、上杉氏から柳瀬川流域の権益を与えられていたのかもしれま
          せん。
           加えて、城主とされる政吉という人物が何とも気になります。大石氏は、「定」ないし
          「重」を通字としており、「政吉」という諱は少々突飛に感じます。ここで、直感的に頭に
          浮かんだのは、北条氏政の一字を拝領したのではないかという推測です。氏政が家督
          を継承したのは謙信の関東出兵以前(永禄二年(1559))のことなので、一応、辻褄は
          合います。次代と考えられる大石直久の名が、おそらく北条氏直の偏諱を受けたものと
          みられることからも、この推測は補強されると思われます。ところが、大石本家は氏政の
          弟氏照が大石定久の婿養子となって継いでおり、定久の他の子や孫が受けている偏諱
          は氏照の「照」の字です。したがって、大石政吉が実在したとすれば、彼は大石氏一族
          ではあるものの、本家とは別個に北条宗家の直臣となっていたものと推測されます。
           北条氏に乗っ取られ、さらにはその北条氏自体が滅ぼされてしまったため、大石氏の
          系譜には不明な点が多々あります。その一端が柏の城に掛かっており、逆に大石氏の
          歴史を解き明かす一端にもなりそうだということは、とても興味深く感じられます。
           余談ですが、訪城の前に城跡の東にある市の埋蔵文化財保存センターを訪ねられる
          と良いかと思います。上の地図の変電所マークの南の、貯水池に描かれているあたり
          にあります。城に関する資料がいくつかあり、私が訪れた際には、とても親切な学芸員
          (?)の方が私がお願いする前から「コピーしましょうか?」とおっしゃってくださいました。

           
 城址標柱(左)と説明板(右)。
西之丸跡の旗桜。 
 
 三之丸大堀跡。
東門跡付近から主城域方面を望む。 


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