篠山城(ささやま)
 別称  : 桐ヶ城
 分類  : 平山城
 築城者: 波多野清秀
 遺構  : 石垣、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : JR福知山線篠山口駅からバスに乗り、
      「二階町」下車徒歩5分


       <沿革>
           慶長十三年(1608)、八上藩主前田茂勝が狂乱を理由に改易されると、代わって松井松平康重が
          笠間藩3万石から5万石で加増・転封となった。康重は徳川家康の落胤ともいわれ、大坂城の豊臣
          秀頼包囲網の一環として、新城の築城を命じられた。康重が候補地に挙げた王地山・篠山・飛ノ山
          (権現山)から、家康が篠山を選定すると、翌十四年(1609)に天下普請で築城工事が行われた。
          縄張りを藤堂高虎、総奉行を池田輝政が務め、20家もの大名が賦役した突貫工事により、篠山城
          はわずか6か月で完成したとされる。
           豊臣家が滅んだ後の元和五年(1619)、康重は岸和田へ転封となり、代わって藤井松平信吉が、
          高崎藩から同じく5万石で篠山に入部した。信吉は翌年に病没し、跡を継いだ嫡男の忠国は、慶安
          二年(1649)に明石藩7万石へ加増・転封となった。
           その後、形原松平家5代を経て寛延元年(1748)に青山忠朝が丹波亀山藩から5万石で入封する
          と、青山家が6代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           篠山城は一見すると平城のようですが、前述のとおり地名の由来となった篠山という小山をベース
          とした平山城です。高石垣で囲まれた旧篠山の本丸と二の丸を中心に、三の丸が輪郭式に取り巻く
          縄張りをしています。その外側には、西を除く三方に馬出しが配され、大手にあたる北側以外の2つ
          が現存しています。三の丸内にも馬出し状の区画が設けられていたようで、名古屋城などと並んで
          徳川氏の築城術の最終形態といえるでしょう。実際の縄張りを担当したのは築城の名手として知ら
          れる藤堂高虎で、本丸・二の丸石垣下の犬走に、その特徴が表れています。
           現在の篠山城跡の見どころといえば、一般には2000年に復元された大書院でしょう。ただし、私と
          しては大書院だけがぽつんとある状態はあまりにも中途半端で、篠山城の良好な遺構を引きたてて
          いるようには思えません。それよりも、遮るものなく目の前にはだかる高石垣の景観こそが、篠山城
          の他に比肩するものの少ない特徴であると感じました。
           家康自身が堅固につくり過ぎたと難じているように、篠山城は5万石としては堅牢かつ手の込んだ
          城といえます。一方で、天下普請にしてはそこまでの規模ではなく、およそ10万石程度の格式とみる
          べきでしょう。趣の残る城下町と合わせて、地方の中心都市の様相を今に伝える貴重な史跡である
          と思います。

 復元された大書院。
二の丸のようす。 
 二の丸南辺の埋門跡。
埋門跡の「三佐之内」刻印のある石材。 
三佐とは池田三左衛門輝政とされています。 
 二の丸の井戸跡。
本丸のようす。 
 本丸の天守台。
天守台のようす。 
右奥の山が八上城跡。 
 二の丸黒鉄門跡枡形。
二の丸北廊下門跡。 
 二の丸北辺のようす。
三の丸北辺の水濠。 
 大手馬出し跡。
二の丸北西隅の石垣と内堀。 
 二の丸西辺の石垣と内堀。
二の丸および本丸南辺の石垣。 
 天守台石垣。
三の丸西辺の土塁。 
 三の丸南辺の土塁。
三の丸南西隅の水濠。 
 南馬出しのようす。
同上。 
 南馬出しの水濠。
南馬出し越しに本丸を望む。 
 東馬出しの水濠。
八上城跡から篠山城跡を俯瞰。 
 おまけ:河原町妻入商家群のようす。


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