福島城(ふくしま) | |
別称 : 木曽福島城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 木曽義康 | |
遺構 : 曲輪、堀 | |
交通 : JR中央本線木曽福島駅徒歩40分 | |
<沿革> 正確な築城年代は明らかでない。天文二十四年(1555)に武田信玄が木曽攻略に 乗り出し、木曽氏が臨戦態勢をとったなかでは、福島城の存在はうかがえず、同年に 木曽氏が武田氏に臣従して以降の築城と考えられる。『木曾古道記』には「弘治二年 (1556)義康新造ノ館」が、現在の山村代官屋敷跡にあったことが記されており、この 前後に福島城も築かれたものと推測されている。この山村代官屋敷跡の木曽氏館に ついて、『中世城館調査報告書集成』では「木曾義昌居館」としているが、弘治年間 (1555〜57)の築城とすると、上記の通り義昌の父義康の代から存在したことになる。 天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、義昌は羽柴秀吉に通じ、木曽は 徳川家康に対する最前線となった。同年、徳川家臣の松本城主小笠原貞慶が攻め 込み、上之段城を焼き払った。このとき、義昌らは福島城に籠城していたが、こちらは 落城を免れたようである。家康と秀吉の間で和議が結ばれると、信州は徳川領として 確認され、木曽氏も徳川家臣となった。 天正十八年(1590)に家康が関東に移封されると、義昌もこれに従い、下総阿知戸 へ移った。木曽は太閤蔵入地となったが、福島城の処遇については不明である。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、福島城と並ぶ木曽の要衝の城である妻籠城 が陣として利用されており、福島城もこのときまで存続していた可能性は考えられる。 妻籠城は、大坂の陣後に破却されたと伝わる。 <手記> 木曽福島の木曽川右岸に標高1280mの城山がそびえていますが、福島城はその 山頂ではなく、東の尾根先に少し下がったところのピークに位置しています。一帯は 「城山史跡の森」として整備されており、城跡までのルートはいくつかあります。 福島城は、本丸のある山頂から、南の尾根筋に二の丸・三の丸を配しており、それ ぞれの曲輪間は堀切で隔絶されています。とくに本丸は、前後の腰曲輪とその下の 帯曲輪から構成され、東を除く三方に続く尾根筋は全て堀切で断ち切られ、独立した 空間となっています。帯曲輪の斜面には竪堀の存在も確認されます。 地域の中核城としては、福島城は必ずしも規模の大きな城とはいえません。しかし、 「すべて山である」とまでいわれながら、木曽谷には山頂に築かれた城は多くはあり ません。福島城も、上記の通り信玄の木曽侵攻時にはその存在を確認できません。 天文二十四年時点で木曽氏が拠ったのは、丘陵や台地の先端を利用した上之段城 や八沢城でした。個人的な見解としては、おそらく福島城は、武田氏への臣従後に、 武田氏の指導の下で築かれたものではないかと考えています。 |
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木曽福島駅周辺から福島城址を望む。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の堀切。 | |
本丸下の帯曲輪。 | |
帯曲輪と竪堀。 | |
同上。 | |
二の丸から堀切越しに本丸を望む。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸下の腰曲輪を望む。 | |
二の丸と三の丸の間の堀切。 | |
三の丸のようす。 | |
福島城下の木曽氏居館跡と伝わる山村代官屋敷。 | |
おまけ:城山史跡の森から望む木曽駒ヶ岳。 |