上之段城(うえのだん)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 木曽義在
 遺構  : 堀切、削平地か
 交通  : JR中央本線木曽福島駅徒歩20分


       <沿革>
          永正六年(1509)、木曽義在によって築かれたとされる。福島には、すでに上之段城の
         南西に八沢城が築かれていたが、木曽氏の本拠は須原にあったとみられている。一説
         には、それまでの木曽氏は須原と福島を必要に応じて行き来していたとされるが、義在
         の上之段城築城によって、本拠地が正式に福島へ移転した。
          天文二十四年(1555)、武田信玄が木曽へ侵攻すると、義在の子義康は上之段城に、
         義康の子義昌は八沢城に籠って備えたとされる。しかし、父子は木曽谷へ攻め込まれる
         前に降伏したため、福島で戦闘が行われることはなかった。武田氏への臣従後、木曽氏
         は福島城を築いて詰城とし、上之段城は平時の居城となった。
          天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉に属した木曽氏は、徳川家康に
         対する最前線となった。同年、徳川家臣の松本城主小笠原貞慶が木曽谷へ攻め込み、
         上之段城は焼き払われた。このとき、義昌は福島城に籠城していたが、妻籠城の善戦も
         あり、木曽福島そのものの陥落は免れたようである。
          秀吉と家康の間で和議が成立すると、信濃は徳川家の領国として確定された。義昌は
         福島城下の居館に住み(後の山村代官屋敷)、上之段城はそのまま廃城となったものと
         推測される。


       <手記>
          上之段城は、木曽川と八沢川に挟まれた細長い丘陵を利用した城です。城跡の主要
         部分が(旧高校)グラウンドになっているため、遺構は断片的にしか残っていません。
          グラウンドの南東にあるこんもりとした小丘が本丸跡とされていますが、グラウンド造成
         によって半分ほどが削られているようです。登ってみても、曲輪造成されているようすは
         見受けられず、物見程度の役にしかたたなかったものと思われます。
          本丸の東側背後は明確に堀切となっており、上之段城における貴重な遺構となって
         います。また、西側の尾根先斜面にも、削平地やそれにともなう切岸跡と思しき箇所が
         みられますが、遺構であるかは判断しかねます。また、尾根先麓の大通寺は、木曽氏の
         平時の居館跡とされています。
          ところで、木曽福島は木曽氏以来木曽谷の中核となる町ですが、訪れてみると意外と
         狭く、平地面積は同じ木曽谷の宮ノ越や大桑周辺の方が広いといえます。それにもかか
         わらず、木曽氏が福島を本拠としたのは、王滝川や黒川沿いに飛騨とのアクセスに優れ
         ていたことや、木曽氏の収入が農作物よりも森林資源に支えられていたことに起因する
         ものと考えられます。

           
 八沢城址から上之段城址を望む。
上之段城址現況。 
奥の山右側のピークが福島城址。 
 本丸背後の堀切跡。
堀切跡の南側付け根。虎口跡か。 
 本丸の丘上のようす。
切岸状の地形。 
中央奥の墓場と右手の畑は削平地跡か。 
 居館址とされる大通寺の山門。
おまけ:大通寺門前の福島宿のようす。 


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