木曽氏館(きそし)
 別称  : 木曽義元館
 分類  : 平山城
 築城者: 木曽氏
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線須原駅徒歩10分


       <沿革>
           戦国期の木曽谷領主木曽氏は、当初須原を本拠としていたことが知られている。木曽
          三大寺のひとつ定勝寺の境内が、かつての木曽氏の居館跡とされる。定勝寺は、嘉慶
          年間(1387〜88)に木曽親豊によって創建されたと伝えられる(永享二年(1430)とも)。
          創建当初の定勝寺は木曽河畔にあり、幾度となく水害によって破壊され、慶長三年(15
          98)に現在の位置に移築された。
           親豊は、福島に八沢城を築いたが、永正六年(1509)に木曽義在が上之段城を築いて
          移るまで、少なくとも平時の拠点は須原にあったものとみられる。義在の父義元は、飛騨
          の三木氏(重頼か)によって奪われた王滝城へ向かう途中、三木勢との合戦で受けた傷
          がもとで死去した。このような情勢を受けて、義在は飛騨勢への対応や松本平の小笠原
          氏との連携に都合の良い福島へ移転したものと推察される。
           『日本城郭大系』の須原城の項によれば、義在はその後も福島と須原の双方を拠点と
          し、相互に往復していたが、その子義康の代に至って福島が本拠に定められたとされる。
          その後、定勝寺が移築されるまでの須原の館の処遇については不明である。


       <手記>
           定勝寺境内が館跡とされています。定勝寺は眼下に中山道と須原宿を望む山裾にあり、
          中世の館跡として妥当な立地と思われます。背後の愛宕山には、詰城と考えられている
          須原城址があり、また木曽川の対岸には和村城があったとされています。
           江戸時代の中山道は、定勝寺の門前で桝形に折れていますが、当時の東山道がどの 
          ように走っていたのかは定かでありません。
           定勝寺は、立派な山門や建物をもった広大な寺院ですが、当然ながら中世城館の遺構
          は残っていません。立地に往時を偲ぶのみです。
           余談ですが、偶然お話をうかがった地元の檀家さんによれば、定勝寺境内のモダンな
          枯山水庭園は、ウィーンのシェーンブルン宮殿にある日本庭園跡の復興を指揮した小口
          基實氏によるものだそうです。

           
 旧中山道脇から定勝寺山門を望む。
定勝寺境内のようす。 
 境内前の枯山水庭園。
おまけ:須原宿のようす。 
 


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