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臼井城(うすい) |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 臼井常康か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : 京成本線京成臼井駅徒歩20分 | |
<沿革> 平安時代末期、千葉常重の弟にあたる常康が臼井に入植し、臼井氏を称した。臼井城は常康に よって築かれたと伝えられるが、確証はない。源頼朝が挙兵すると、常康の子・常忠は甥の千葉 常胤ではなく同族の上総広常に従った。しかし、広常は寿永二年(1184)に頼朝の命で殺害され、 臼井氏は所領を失って千葉氏の臣下となったとみられている。 14世紀の11代当主とされる臼井興胤は幼くして家督を継いだが、叔父の志津胤氏に命を狙われ 鎌倉の建長寺へと身を寄せた。胤氏は臼井城と臼井氏の家督を簒奪したが、鎌倉幕府が滅ぶと 足利尊氏に従った興胤が臼井氏の当主として認められた。興胤は胤氏を攻め滅ぼして臼井氏の 勢力を拡大し、臼井氏中興の祖と呼ばれるようになったといわれる。ただし、興胤の名は江戸時代 中期以降の書物にしかみられず、裏付けはない。事実とすれば、遅くとも鎌倉末期までに臼井城が 築かれていたことになる。 15世紀半ばに千葉氏が分裂し、千葉自胤を支援する扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が千葉孝胤 を攻めると、孝胤は文明十一年(1479)に臼井城へ籠城した。同年七月、臼井城は攻め落とされて 孝胤は一時身を潜めたが、この攻防戦で道灌の弟・図書助資忠も討ち死にしている。戦いは道灌 らが終始優勢であったが、自胤は下総国内での支持を集められず、まもなく孝胤が臼井城を回復 した。 永正十四年(1517)ないし十五年(1518)に、足利義明が千葉氏一門の原氏の小弓城を奪って 小弓公方と称すると、臼井景胤は千葉氏から離反して義明に与した。しかし、義明が討ち死にした 天文七年(1538)の第一次国府台合戦に臼井氏が参戦していないことから、それ以前に千葉氏に 帰参していた、ないし攻め降されていたとする説もある。いずれにせよ、小弓公方が滅ぶと臼井城 と臼井氏も千葉氏方に復している。 永禄四年(1561)、上杉政虎(謙信)の小田原攻めに呼応した里見氏家臣の正木時茂(ないし子 の信茂)が臼井城を攻め落とし、景胤の子・久胤は結城氏を頼って落ち延びた。同八年(1564)の 第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に大敗すると、原胤貞が臼井城を奪還したが、久胤が復帰 することはなかった。胤貞の娘は景胤に嫁いでおり、一説には久胤の後見として胤貞が臼井城に 入り、小田原攻めの時点で臼井氏の実権を握っていたともいわれる。 永禄九年(1566)、関東へ出陣した謙信は里見氏の救援要請を受け、千葉領へ進軍した。千葉 胤富は本城である本佐倉城の防衛を優先し、臼井城には北条氏の援軍を合わせて約2千人ほど が籠城していたとされる。対する上杉軍は1万5千にも及び、そこには臼井久胤も、結城勢の一員 として参加していたともいわれる。 三月二十六日、謙信は「「これほどの小城 何程の事かあるべき」と攻撃を命じたが、城兵も門を 開いて3波に渡る突撃を敢行した。とくに、第3陣の北条家臣・松田康郷の奮戦は凄まじく、「赤鬼」 の異名を取ったと伝わる(『北条記』)。上杉軍が撤退して、その日の戦闘は終わったが、翌日の 城内は打ってかわって静まり返っていた。これを訝った謙信が海野隼人に尋ねると、先に動けば 負けるとされる「千悔日」に当たるからだろうと返されたため、逆に攻撃を命じた。しかし、指揮権を 胤貞から預けられていた軍師の白井胤治入道浄三はこれを予期しており、敵兵が取り付いた機を 見計らって城壁を崩し、下敷きにして大損害を与えた。敵が浮足立ったところに、浄三はすかさず 突撃を命じ、上杉勢を散々に打ち負かした。2度の城攻めに失敗した謙信は退却を余儀なくされ、 関東諸将の離反が相次ぐ要因となったといわれる(臼井城の戦い)。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、胤貞の子・胤栄とその子・胤義は小田原城に詰めて おり、臼井城は一族の原邦房が守備した。しかし、北条氏が滅ぶと原氏も没落した。徳川家康が 同年に関東へ移されると、酒井家次が3万石で臼井城主となった。文禄三年(1593)、臼井城は 火災により焼失したとされるが、どの程度再建されたのかは定かでない。関ヶ原の戦い後の慶長 九年(1604)、家次は高崎藩5万石へ加増・転封となり、ここに臼井城は廃城となった。 <手記> かの上杉謙信の大軍に耐えた城として高名な臼井城ですが、地形的には関東ロームの複雑に 入り込んだ台地の舌状地形を利用した、ごく一般的な選地といえます。南東には成田街道の宿場 が延びており、当時は三方を印旛沼の沼沢地に囲まれていたと推測されます。印旛沼から常陸川 (現在の利根川流路)を遡れば古河に至り、古河城の兄・足利高基を主敵とする小弓公方・足利 義明にとって、臼井城と臼井景胤は重要な意味を持っていたとみられているようです。そのため、 第一次国府台合戦は臼井を失ったことで印旛沼ルートが使えなくなった義明が、代わりに太日川 (現在の江戸川)遡上するルートを確保しようとして発生したとする説もあります。ただし、一説には 当時の太日川は江戸川下流より西側を流れていたともいわれ、確証はないようです。 城跡は臼井城址公園となっていて、本丸と二の丸跡がきれいに整備されています。それぞれの 曲輪に深く立派な堀が残っていますが、全体的には必ずしも大きな城とはいえません。二の丸堀 の西側には太田図書の墓があり、現地説明板ではここを三の丸としていますが、郭内外を区切る ようなものが見当たらないことから、少なくとも千葉氏時代にはすでに城外であったと思われます。 周囲には本佐倉城と同様に多くの支砦が設けられていたようですが、謙信が小城と侮ったように 臼井城自体はそこまで要害堅固という感じではなく、ひとえに白井浄三の采配と城兵および将の 士気の高さ・粘り強さがもたらした勝利だったのだろうと感じました。 また、城址公園から南へやや離れた臼井台交差点のあたりに大手門があったと伝えられている ようです。ただ、旧成田街道は交差点と城址公園の間を横断していたとされ、千葉氏時代にここ まで城域が延びていたとも考えにくいため、酒井家次時代に一時的に街道が付け替えられ、間に 武家屋敷等が建設されたのではないかと推察されます。 ちなみに、白井浄三については出自が明らかでなく、三好長逸に仕えた後に修行として関東へ 下っていたとする巷説もあります。ただ、諱に「胤」の字が含まれることから、千葉氏一族ないしは 古参の家臣と見るべきではないかと思います。北西の白井市(旧・印旛郡白井村)との関連も考え られますが、白井氏が一般に「しらい」と読まれるのに対して、白井市の読みは「しろい」です。 |
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城址公園入口の城址碑。 | |
二の丸の空堀。 | |
同上。 | |
二の丸跡のようす。 | |
二の丸跡の縁の土塁状地形。 | |
本丸の土橋。 | |
本丸の空堀。 | |
本丸郭内から虎口を望む。 | |
本丸北西部の土塁。 | |
本丸内の堀状地形。 | |
本丸跡のようす。 | |
本丸からの眺望。 | |
本丸北辺下の腰曲輪状の平場。 | |
二の丸南西の土塁状地形とその上の小社。 | |
太田図書の墓。 | |
大手門があったとされるあたりの現況。 |