金比羅山砦(こんぴらやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 不明
 遺構  : 曲輪跡、堀
 交通  : JR中央線/京王線高尾駅徒歩10分


       <沿革>
           史料にはみられない城砦跡である。東京都遺跡地図には時代区分を保留しているが、城館跡として
          登録されている。

       <手記>
           金比羅山砦は、初沢川と案内川に挟まれた細長い峰の先端付近にあったと考えられています。文字
          通り金比羅宮が鎮座していることからその名がついていますが、遺構は神社よりも東の尾根筋に集中
          しています。神社のある峰は四周を急崖に囲まれ、境内も狭いので、遺構の有無は不明です。そもそも
          境内に立て籠もるだけで要害性は十分と思われますので、それ以上の造作は必要なかったのかもしれ
          ません。
           金比羅宮の東側隣にもピークがあり(便宜上東峰と呼ぶことにします)、両者の間の鞍部北側斜面に
          は旧道のようにも見える竪堀状地形があります。東峰の山頂はほぼ明らかに2段に削平されており、
          こちらには神社などはないため、城館遺構で間違いないと思われます。
           東峰の東側の尾根筋には、遺構のように見える凹凸が散見されるのですが、同時に崩れやすい土質
          なのか根っこから抜けている倒木が少なからずありました。したがって、大部分の凹凸は、倒木などの
          自然現象によるものでしょう。途中、1ヵ所だけ確実に腰曲輪であろうという削平地があり、さらに下ると
          尾根が緩やかになったところにもう1つ平場があります。後者の平場には小さな石祠があり、その付け根
          にはまたも竪堀のような旧道のような切れ込みがあります。
           平場の先端には、おそらく虎口跡と思われる入口の折れがあり、その下は麓まで短いながら九十九
          折れとなっています。この九十九折れは小規模ながら堀底道となっており、往時から変わっていないと
          すれば、城館の造作に入るものと考えられます。
           さて、金比羅山の南には、初沢城高乗寺城山という2つの城跡があります。3者あわせて八王子城
          の支城だったのではないかとする説がやや有力です。ですが、私はその可能性は低いのではないかと
          考えています。その一番の理由は、八王子城が築かれた頃の北条氏の築城技術を考えると、3つの城
          はなべてお粗末すぎるということです。逆に3つの城は、尾根筋に堀切を用いない、竪堀を斜面の片側
          のみに設ける、曲輪が単純な削平にとどまっているなどの共通点をもっています。さらに、金比羅山砦
          の現下の遺構をみると、武田信玄や豊臣秀吉に備えるのであれば西からの攻撃に備えなければなら
          ないはずのところ、防御の意識がすべて東側に向いています。
           ここからは私見ですが、金比羅山砦および高乗寺城山は、同一稜線上にあり、この尾根伝いの山道
          は現在もハイキングの穴場として知られているようです。この尾根道を南下すると津久井そして伊勢原
          へ通じています。したがって、高乗山城山と金比羅山砦は、相模西部と河越を結ぶ重要な最短ルート
          の1つだったのではないかと考えています。このルートが重要であったのは、北条早雲と同盟し、山内
          上杉顕定と敵対していたころの扇谷上杉朝良から、河越城を奪って両上杉氏と争っていたころの北条
          氏康の時代までとなります。そして、伊勢原(小田原)・河越ルートの確保という目的と、東側とりわけ
          埼玉県方面からの攻撃を想定しているようにみえるという金比羅山砦の性格は、見事に一致している
          ように思われます。
           こうした観点から、私は金比羅山砦は両上杉氏が駆逐されて以降は自然廃城状態となり、せいぜい
          関所くらいにしか顧みられていなかったものと推測しています。

           
 金比羅宮。
金比羅宮と東峰の間の鞍部の竪堀状地形。 
 東峰山頂のようす。
東峰の一段下の削平地。 
 東峰東側中腹の削平地。
東峰東側中腹の竪堀状地形。 
 祠のある削平地。
祠のある削平地先端の虎口状地形。 
 その下の堀底道状の九十九折れ。


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