松平城(まつだいら) | |
別称 : 郷敷城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 松平親氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸 | |
交通 : 名鉄豊田市駅よりバスに乗り、 「松平郷」下車徒歩10分 |
|
<沿革> 徳川将軍家の先祖とされる、松平親氏が築いたものと伝わる。親氏は、もとは徳阿弥と 称する時宗の僧で、諸国を放浪したのちに松平郷へ流れ着き、在地領主松平信重の婿 養子となったとされる。親氏については、徳川家康の祖父松平清康のころから新田氏の 庶流世良田氏の末裔と称していたが、今日では事実とは考えられていない。他方の信重 は、京の賀茂神社神職賀茂氏ないし在原氏の流れを汲むとする説が有力である。 親氏は子ないし弟の泰親とともに勢力を拡大し、後世の発展の基盤を築いたとされる。 ただし、親氏・泰親の事跡を示す優良な史料はなく、実在を疑う説もある。動静が明確と なるのは、親氏ないし泰親の子信光の代からである。信光は室町幕府政所執事伊勢氏 の被官となり、額田郡岩津へ進出して岩津城を築き、岩津松平家を興した。松平郷は 信光の庶兄信広が継承したとされる。信光の下で岩津松平家が興隆し、その庶流安祥 松平家が徳川将軍家につながることから、一般には岩津松平家が宗家とされるが、この ときはまだ松平郷松平家が嫡流であったとする説もある。 松平郷松平家はその後も連綿と続いたが、勢力は振るわず、いわゆる十八松平にも 数えられていない。松平城は16世紀後半の改修を受けているとみられるが、いつごろ 誰がどのような経緯で行ったのかは詳らかでない。 松平城は遅くとも、家康が関東へ移封となった天正十八年(1590)には、廃城となった ものと推測される。信広の後裔の松平尚栄は、関ヶ原の戦いの後に松平郷220石へと 復帰したが、新たに陣屋を設けたため、城が再興されることはなかった。 <手記> 松平氏発祥の地である松平郷は、東海環状自動車道豊田松平ICから10分ほど車で 分け入った山間部にあります。集落の規模に比べて、観光地としてしっかり整備されて いて、城山の西麓には広い駐車場もあります。 当の松平城は、主郭以下4つの曲輪が、S字状に曲がりつつも順繰りに並ぶ単純な 構造をしています。虎口はいずれも平入りで、石塁が用いられた形跡もなく、近隣の 大給城や松平城山城などと比べると、かなり貧弱な印象です。他方で、主郭の周囲 には大規模な竪堀や横堀が巡っています。いずれも山頂の主郭との間にやや比高差 があり、近江の宇佐山城などとの類似性が感じられます。すなわち、弓ではなく鉄砲の 射程を意識した造作で、堀外の土塁上に並んだ敵兵を鴨撃ちにする狙いがあるものと 考えられます。 したがって、松平城は規模こそ大きくはありませんが、徳川家康の時代に改修を受け ているものと推察されます。とはいえ大給城ほどには重要視されていなかったはずで、 松平郷松平家の微妙な立ち位置を示しているようにも感じられます。 構造上面白いのは小さなお社のある4曲輪で、社殿の裏に空堀とも溜池とも見える 窪地があります。また、曲輪の先端には櫓台があり、社殿の前面脇にも堀状の切れ 込みが認められます。あくまで私見ですが、私はこの切れ込みについて大手口では ないかと考えています。現在の登り口はどの曲輪にも通じておらず、もとは自然地形 だったのではと思うほど手薄です。他方で、4曲輪の切れ込みは字竹の入の谷戸に 通じており、防御・監視の面からも適地といえるでしょう。サンライズ出版の『愛知の 山城 ベスト50を歩く』では、「竹」を「館」の転訛として居館の存在を示唆しています。 ただ、字竹の入の谷戸はかなり狭く、さすがに奥まりすぎているように感じられます。 城山の周辺に平時の居館があったとする説は妥当と思いますが、その場合でももう 少し見晴らしの利く場所にあったと見るべきでしょう。 |
|
松平城址説明板と史跡石碑。 | |
主郭の城址碑。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の虎口。 右手が上下2段になっています。 |
|
2曲輪のようす。 | |
3曲輪のようす。 | |
4曲輪のお社。 | |
社殿背後の窪地。 空堀ないし溜池跡か。 |
|
4曲輪のようす。 | |
社殿前面脇の切れ込み地形。 大手口か。 |
|
4曲輪先端の櫓台。 | |
井戸跡。 | |
主郭南側の堀切。 | |
同上。 | |
堀切から続く竪堀。 | |
堀切と横堀の間の仕切り土塁。 | |
主郭東下の横堀。 | |
2曲輪北下の横堀。 |