亀山城(かめやま) | |
別称 : 伊勢亀山城、粉蝶城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 岡本宗憲 | |
遺構 : 多聞櫓、石垣、堀、曲輪跡 | |
交通 : JR関西本線・紀勢本線亀山駅徒歩10分 | |
<沿革> 文永元年(1264)、この地に封じられた関実忠は、現在の城地の北西にある若山に 居城を築いた。これが広義の亀山城のはじまりであり、亀山古城などと呼ばれる。 天正十八年(1590)、蒲生氏郷の麾下となっていた関一政は、氏郷の会津転封に 伴い白河城主に転じた。代わって岡本良勝(宗憲)が、2万2千石で亀山城に入城した。 良勝は若山の亀山城を廃し、南東の現在の地に新城を築いた。これが、今日に見る 近世亀山城のはじまりである。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで良勝は西軍に属し、戦後切腹を余儀なくされた。 亀山城には一政が3万石で復帰し、亀山藩が成立した。一政は、同十五年(1610)に 伯耆黒坂藩5万石へ加増転封となり、代わって奥平松平忠明が同じく5万石で入った。 忠明は、大坂の陣後の同二十年(1615)に大坂城へ移封となり、亀山藩は一時消滅 した。 元和五年(1619)、三宅康信が三河衣藩(挙母藩)から1万石で入城し、再び亀山藩 を立藩した。三宅氏時代の寛永九年(1632)、幕府から丹波亀山城の修築を命じられ た堀尾忠晴が、誤って伊勢亀山城の天守を解体してしまうという事件が起きた。以後、 亀山城天守が再建されることはなかった。 寛永十三年(1636)、康信の子康盛は衣藩へ再転封となり、本多俊次が西尾藩から 亀山藩に加増・転封された。俊次によって亀山城は大改修を受け、同十八年(1641) には本丸北隅に天守代用の三重櫓が建てられた。正保元年(1644)には、天守台跡 に現存する多聞櫓が築かれた。 俊次は慶安四年(1651)に膳所藩へ移封となり、その後は石川憲之、板倉家3代、 大給松平乗邑、板倉家2代(再封)と目まぐるしく藩主家が交代し、憲之の曽孫である 石川総慶が、板倉勝澄と交代する形で延享元年(1744)に備中松山藩から6万石で 入封するに及んで、ようやく安定をみた。総慶以後石川家が11代続いて、明治維新を 迎えた。 <手記> 亀山は、東海道と伊賀街道が鈴鹿山系から平野部に出る喉口部を押さえる要衝中 の要衝にあります。亀山城は、東海道と鈴鹿川を南に望む台地の先端にあり、城の 北側と南側は水を湛えた深い谷となっています。 遺構としては、三重県下で唯一現地現存の城郭建築物である多聞櫓とその周辺の 本丸石垣、そして本丸北の三重櫓跡あたりでしょう。 本丸東側の二の丸以下は、小学校などの敷地となっています。小学校の北側は、 最近発掘調査が行われたようで、二の丸御殿跡の遺構が見つかっています。二の丸 の北には小規模な帯曲輪があり、調査結果に基づいて塀とともに復元されています。 古絵図には土塀に狭間が描かれていないとのことから、復元土塀にも狭間が開かれ ていません。 亀山は、東海道の宿場町でもあり、今も城下にその面影を残しています。城と町を ゆっくり歩けば、なかなか面白い歴史散歩ができると思います。 |
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内堀の城池越しに本丸を望む。 | |
本丸多聞櫓。 | |
本丸三重櫓跡。 | |
亀山城北側の谷を望む。 | |
二の丸北側の埋門跡と復元された帯曲輪。 |