亀山古城(かめやまこ) | |
別称 : 若山城、丹陵城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 関実忠 | |
遺構 : 不明 | |
交通 : JR関西本線・紀勢本線亀山駅徒歩15分 | |
<沿革> 伊勢平氏流関氏の祖とされる関左近将監実忠によって、文永二年(1265)に築かれたと 伝わる。実忠は執権北条得宗家の被官として伊勢国鈴鹿郡関谷の地頭職を得たとされる が、それ以前から平清盛に仕えた平姓関信兼の名が見られるなど、関氏の出自には不明 な点もある。実忠以下、鎌倉時代の関氏は幕府に出仕していたため、若山の亀山城には 代官を置いていたといわれる。 関氏の動向がはっきりしてくるのは、鎌倉幕府滅亡時の当主関盛政からである。南北朝 時代に入ると盛政は亀山に戻り、長男盛澄を神戸(沢城)に、次男盛門を国府城に、四男 盛宗を鹿伏兎城に、五男政実を峯城に配して地歩を固め、関本家の家督は三男の盛繁に 継がせた。 永禄十〜十一年(1567〜68)にかけて織田信長の命を受けた滝方一益が北伊勢へ侵攻 すると、関一族は抗戦したものの徐々に切り崩されて降伏していった。関盛信は最後まで 抵抗を続けたが、盟友であった六角氏が信長に攻め滅ぼされるに及んで、屈服を余儀なく された。 元亀四年(1573)、盛信は庶流神戸氏を継いでいた信長三男の信孝に非協力的であると して、信孝の養父神戸具盛とともに縁戚の蒲生氏に預けられた。亀山城は信孝に与えられ たが、城主など詳しい扱いは定かでない。天正十年(1582)に至って盛信はようやく赦され、 亀山城主に復帰した。 翌天正十一年(1583)正月、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として、羽柴秀吉に通じていた盛信の 亀山城と岡本良勝の峯城は滝川一益に攻め落とされた。一益は亀山城に滝川益氏(佐治 新助)を、峯城に滝川儀太夫益重を残し、自身は長島城で秀吉勢を迎え撃った。二月中旬 には秀吉の大軍が亀山・峯両城を攻囲し、両者ともよく持ち堪えたが、まず亀山城が三月 三日に開城した。峯城はさらに四月まで耐えている。 戦後、亀山城は蒲生氏郷に与えられ、氏郷は盛信の子で義弟にあたる関一政を与力の 城将として送った。天正十八年(1590)の奥州仕置によって、氏郷が会津領主に転じると、 一政もこれに従って白河小峰城主となり、代わって旧峯城主の岡本良勝(宗憲)が亀山城 2万2千石に封じられた。 良勝は、南東の丘陵に近世亀山城を新たに築き、若山の亀山城を廃して移った。 <手記> 近世亀山城に対して亀山古城と呼ばれる若山の亀山城は、亀山市歴史博物館の南側の 丘にあったと伝えられています。ただし、丘の南麓には城址碑と説明板があるものの、その 内容は若山城の存在についてだいぶ懐疑的です。 この丘が亀山古城であるとするのは、江戸時代の亀山城絵図や『九々五集』などによる ものですが、当時から「古城」の地名以外に確証があったわけではないようです。近年の 発掘調査によると、若山周辺からは中世城館に繋がる遺物は見つかっておらず、逆に近世 亀山城の二の丸および三の丸の下層から、戦国時代のものとみられる大規模な空堀跡が 検出されているそうです。 地形的に見ると、だいぶ削られているように見受けられますが、それでも比定地とされる 丘はあまりに小さく、とても秀吉の大軍相手に半月も持ち堪えられるようには思えません。 周辺は開発が進んでいて旧地形をとどめていない部分もあるでしょうが、少なくとも西側の 愛宕神社の丘までは城域に含めないと、滝川一益や蒲生氏郷の目に留まるような城とは 成り得ないように思われます。 |
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城址碑と比定地の丘。 | |
比定地の丘を望む。 |