宮城氏館(みやぎし) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 宮城氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR京浜東北線王子駅または都電荒川線小台停留所 よりバス。「宮城二」または「宮城小前」バス停徒歩2分 |
|
<沿革> 豊島氏の庶流宮城氏の居館跡と伝わる。宮城氏は、『金輪寺本豊島家系図』や『豊島宮城系図」』に よれば、葛西清重の子朝清にはじまるとされる。また『泰盈本豊島家系図』によれば、清重の4代後の 豊島重信の子八郎重中にはじまるとされる。豊島氏関連の系譜は、この後戦国時代までかなりの混乱 がみられるため、詳細は不明である。文明八年〜九年(1477〜78)に、本家豊島氏が太田道灌(資長) によって滅ぼされると、宮城氏は太田氏に従った。 太田氏が、江戸城や稲付城を本拠とする武蔵太田氏と、岩付城を本拠とする岩付太田氏に分かれる と、宮城氏は岩付太田氏に属したとみられる。そのため、武蔵太田氏が北条氏に従ったのに対し、岩付 太田氏の太田資正(三楽斎)が北条氏と敵対するに及んで、資正の父資頼の代から仕えていた宮城 政業は、宮城を去って岩付に赴いたものと推測されている。ただし、永禄七年(1564)に資正の嫡男で 親北条氏の氏資がクーデターを起こすと、政業は氏資を支持した。クーデターは成功し、岩付太田氏も 北条氏の幕下に入ったが、宮城氏が宮城の地に返り咲いたかは不明である。永禄二年(1559)の成立 とされる『小田原衆所領役帳』によれば、吉原新兵衛が「宮木」に役高を得ていた。 政業は長命で、資頼以下6代の主君に仕え、天正十七年(1589)に95歳で死去したとされる。北条氏 滅亡後は、政業の曾孫正重が徳川秀忠に召し出された。 <手記> 氷川神社が宮城氏の居館跡といわれています。宮城地区は、荒川と隅田川に挟まれた中州のような ところですが、現在の荒川は1930年に完成した人工河川で、現在の隅田川が当時の荒川でした。すな わち、宮城氏館は荒川の河岸に営まれた館ということになります。隅田川を挟んだ豊島地区には、本家 豊島氏の初期の居館とされる豊島清光館があります。 遺構はとくに残っていません。神社の本殿脇に、館跡の石碑が建っているのみです。 |
|
宮城氏館跡とされる氷川神社。 | |
館跡の石碑。 |