三芦城(みよし) | |
別称 : 石川城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 石川有光 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR水郡線磐城石川駅徒歩20分 | |
<沿革> 大身領主石川氏累代の居城である。石川氏は源頼光の甥にあたる頼遠の子有光が、 前九年の役での功により康平六年(1063)に陸奥国石川郡を与えられたことにはじまる とされる。一般には、有光はまず藤田城を設け、後に三芦城を築いて移った伝わる。 三芦城の名については、伝承によればあるとき有光が蘆の3本生えるところに清水が 湧き出すという夢を見た翌日、飛んでいた鶴が松の小枝を落としたところに蘆が3本あり、 掘ってみたところ実際に水が出たため、その地に城を築いたことによるという。 その出自から石川氏は源頼朝が打ち立てた鎌倉幕府との結びつきが強く、そのため 建武の新政下では冷遇され、南北朝に分裂すると北朝に属した。南朝の雄として活躍 した隣領の白河結城氏とは激しく争い、しばしばお互いの領内に攻め込み合っていたが、 三芦城で攻防があったかは詳らかでない。その後、結城氏が北朝に転じると、石川氏の 立場は弱くなり、勢力も減衰した。 戦国時代には、白河結城氏のみならず田村氏や岩城氏にも圧迫され、戦国大名への 脱皮はついにできなかった。24代石川晴光は、伊達晴宗の四男昭光を養子としたが、 天正二年(1574)に有力支族の浅川城主浅川次郎左衛門が佐竹氏に通じ、白河結城氏 の南郷支配の要である赤館が佐竹義重に攻め落とされるに及んで、石川氏も佐竹氏に 従属した。 天正十七年(1589)、昭光の甥の伊達政宗が蘆名氏を滅ぼすと、昭光は伊達氏に臣従 した。同年に政宗が二階堂氏も滅ぼすと、昭光は同氏の居城であった須賀川城を任せ られた。しかし、翌十八年(1590)の小田原の役に際し、昭光は政宗の命により小田原へ 参陣しなかったことから、奥州仕置において改易に処された。昭光はそのまま伊達家に 仕えたが、家老の溝井六郎右衛門義信はこれを無念とし、昭光らが退去した後で三芦城 に火を放ち、自害した。これにより、平安末より500年続いた三芦城は歴史の幕を閉じた。 <手記> 三芦城跡の大部分は、石都々古和気神社の境内となっています。本殿背後には土塁 が残り、境内の北半には狼煙台や見張台の標識がありますが、基本的には1枚の広め の本丸となっています。 本殿前を下りると巨岩奇岩がごろごろしており、鳥居代わりという石門などは、そのまま かつては城門として使われていたのでしょう。築城が平安末ということであれば、これら の巨岩が防御施設であり、また権威や信仰の対象でもあったと思われます。 本丸の北東には副郭とみられる腰曲輪があり、簡単な遊歩道が付されています。土塁の 裏側下にも、削平は甘いようですが帯曲輪とみられる空間があり、その背後には堀切が 穿たれています。 堀切の先にも西館や愛宕台といった地名があるようですが、全体的にみると三芦城は 結局のところ、大身領主の居城としてはかなり手狭です。1町を形成しているとはいえ、 城下も発展性が高いとはいえず、石川氏がもし戦国大名への脱皮を図るとするならば、 居城の移転の必要性を感じたはずでしょう。それができなかったから戦国大名化ができ なかったのか、逆に勢力が振るわなかったからここに居城し続けざるを得なかったのか。 それは鶏卵の議論ですが、少なくとも三芦城の旧態依然とした立地と規模が、独立した 戦国大名には発展できなかった石川氏の限界を如実に露呈しているように感じました。 |
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三芦城跡を見上げる。 | |
石都々古和気神社本殿。 | |
境内の石碑。 | |
本殿背後の土塁。 | |
本丸の狼煙台跡。 | |
同じく見張台跡。 |
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本殿下の巨岩群。 | |
石門。 | |
本丸北東下の曲輪。副郭か。 | |
本丸の副郭側切岸。 | |
本丸土塁を背後から。 | |
土塁下の曲輪。 | |
本丸背後の堀切跡。 | |
同上。 |