百田藤兵衛城(ももたとうべえ)
 別称  : 長田丸、百田氏館
 分類  : 山城
 築城者: 百田氏
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : 伊賀鉄道上野市駅から車で10分


       <沿革>
           天正九年(1581)の第二次天正伊賀の乱に際して、織田信長に抵抗する伊賀衆のうち土豪
          136名以下約2800人が比自山城に、約1500人が平楽寺に立て籠もった。その中でも山麓に
          居を構える百田藤兵衛と福喜多将監が中心的な役割を担い、それぞれ比自山城に付随する
          長田丸・朝屋丸を守備したとされる。これらについては比自山城の南北の曲輪群とする説と、
          山麓に近い百田藤兵衛城および福喜多将監城を指すとする説がある。
           比自山城での攻防戦は同年九月二十九日に始まり、何度も織田勢を撃退したものの、十月
          三日に落城したと伝わる。ただし、城兵は総攻撃の前にすべて柏原城へ逃げ込んだ。同年中
          に伊賀国は平定されたが、百田氏および百田氏の城館のその後は不明である。


       <手記>
           「ふるさと芭蕉の森公園」の駐車場近くの園内略地図に向かって左手に踏み分け道があり、
          これを進むと山道になって、その大きくカーブするあたりで尾根に取りつくと、百田藤兵衛城跡
          に辿り着きます。私はこの道を知らず、南東麓から直登しました。
           城は尾根の鞍部を利用して掘り込み、南辺に土塁を設けています。道のある北側のみ開口
          して三方を塞いだ単郭方形の城で、せいぜい20人ほどが立て籠もればいっぱいになるような
          狭さです。とても居住はできる感じではなく、比自山築城に伴って築かれたのであれば、出城
          としての位置付けだったのでしょう。他方でそれ以前からあったのであれば、忍者らしく密談・
          商談などの場として利用されたのかもしれません。
           さらに尾根を登るか山道を上がっていくと、神社のような藤堂家の誰かの墓所があります。
          その上手の尾根先にも、ごく小さな人工の凹地形があり、遺構にも見えますが断言はできま
          せん。あるいは比自山城に至るまで、こうした武者溜りのような区画が散在しているのかも
          しれません。

           
 北東から百田藤兵衛城跡を望む。
城跡の土塁。 
 城内のようす。
唯一土塁のない北辺のようす。 
 山道から城跡を見上げる。
藤堂家の墓近くの凹地形。 


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