牟礼砦(むれ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 北条綱種
 遺構  : なし
 交通  : 京王井の頭線三鷹台駅徒歩10分


       <沿革>
           天文六年(1537)、扇谷上杉朝定が深大寺城に重臣難波田弾正を入れて後北条氏と対峙する
          と、北条氏綱の命を受けた江戸城将北条綱種(高橋高種の子。後の綱高)は牟礼に砦を築いて
          背後を脅かした。同年に、氏綱は深大寺城を看過して朝定の居城河越城を直接攻め落とした。
          今に続く牟礼神明社は、このときに陣内鎮護のため芝の飯倉神明宮を勧請して祀ったのがはじ
          まりとされる。
           牟礼で戦闘はなかったとみられるが、牽制として重要な役割を果たしたとみられる。河越落城
          によって、牟礼砦も役割を失い神社の境内に取り込まれたものと推測される。


       <手記>
           牟礼神明社境内には、綱種が軍旗を掲げたとされる御神木・旗かけ松の由来碑があり、綱種の
          子康種は、天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶと、牟礼に移り住んで帰農したそう
          です。そのため、綱種ゆかりの地であることは間違いないと思いますが、上述のとおり砦とはいえ
          一時的な陣城なので、どこまで防備が施されていたのかはわかりません。
           東側には一見すると川が流れて要害地形に見えますが、これは玉川上水なので、当然ながら
          戦国時代にはまだありませんでした。そうすると、三鷹台から続く丘陵の台地縁にすぎず、西側が
          斜面になっているほかは、取り立てて要害性はみられません。牟礼と深大寺の間には天神山城
          があり、天神山から牟礼までは平らな地形なので、このあたりとの兼ね合いで、牟礼が陣場として
          取り立てられたのかなという感じです。

           
 牟礼神明社。
境内から西方を望む。 
 御神木・旗かけ松の由来碑。
おまけ:玉川上水の流れ。 


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