名張陣屋(なばり) | |
別称 : 名張城、藤堂屋敷 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 松倉重信 | |
遺構 : 門、屋敷 | |
交通 : 近鉄大阪線名張駅徒歩5分 | |
<沿革> もともと土豪の砦が築かれていたといわれるが、誰のものかは不明である。天正十三年 (1585)に筒井定次が大和郡山城から伊賀へ転封となると、重臣松倉右近重信が名張に 8千石を与えられた。重信は名張城を築城し、縄張りは嫡子重政が担当したともいわれる。 重信が死去すると重政が名張城主を継いだが、まもなく筒井家を去り、豊臣秀吉の直臣 となったとされる。ただし、重信の没年には天正十四年(1586)と文禄二年(1593)の2説が ある。重政辞去後は、筒井家臣桃ヶ谷与次郎国仲が名張城代となったとされる。 慶長十三年(1608)に筒井家が改易されると、代わって藤堂高虎が津城に入って伊賀の 大半を領した。名張城代には藤堂家臣梅原武政が就いたが、元和三年(1617)に不手際 を理由として職を解かれた。一国一城令の発令後であったこともあり、その後は上野城代 の預かるところとなった。 寛永九年(1632)、藤堂藩の飛び地である今治領を治めていた高虎養子で丹羽長秀の 三男である藤堂高吉は、松平定房が今治藩主となった際に、幕府から替地として伊勢に 2万石を与えられた。しかし、高虎実子で2代藩主の藤堂高次は、高吉を藤堂本家からの 独立を図る危険分子とみなし、同十三年(1636)に名張移封を命じた。高吉は名張城跡を 取り立てて、陣屋を建造した。 以後、名張藤堂家は支藩でもなく、津藩内の一門別家という扱いのまま12代続いた。 <手記> 名張陣屋は平尾山から北西に延びる舌状の丘を利用した城です。中心部分は名張小中 学校となっていて、地形上の遺構は残っていません。台地の先端付近に名張藤堂家邸の 一部が残り、公開されています。この日の城跡巡りの最後に訪れたため、閉館間際だった のですが、係員の方が親切に対応してくださいました。 また、さらにその先の寿栄神社には、陣屋の太鼓門が移築されています。境内と藤堂家 屋敷の間付近からは、発掘調査により筒井氏時代のものとみられる石垣跡が検出された そうです。 城跡の名残はほぼありませんが、地形的には、名張を治める城を築くのにちょうど適して いるように感じられます。 |
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名張藤堂家邸。 | |
寿栄神社の移築太鼓門。 | |
寿栄神社と藤堂家邸の間。 筒井氏時代の石垣跡が見つかったそうです。 |
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南西側斜面のようす。 | |
北東側の斜面。 |