八幡平の城(はちまんだいら)
 別称  : 新野古城
 分類  : 山城
 築城者: 新野氏
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR東海道本線菊川駅からバスに乗り、
      「新野」下車徒歩40分


       <沿革>
           新野新城(舟ヶ谷城)に先立つ新野氏の居城とされる。新野氏は横地氏や勝間田氏らと
          同じく鎌倉時代以前からこの地に土着していたが、系譜は定かでない。初期新野氏は鎌倉
          幕府の滅亡に関連して衰退したとみられ、代わって今川基氏の弟・俊氏の子・俊国が新野
          に入り、新野氏を称したとされる。新野氏がいつごろ舟ヶ谷城へ移ったのか、また移転後の
          八幡平の城がどのように扱われたのかは明らかでない。


       <手記>
           八幡平の城は舟ヶ谷城と峰続きではありますが、いささか奥まった場所にあります。周囲
          の谷戸も開発に向いているとはいい難く、平時の居城ではなくつとめて戦時の詰城だった
          ものと推測されます。東麓の想慈院に駐車場や説明板があり、ぐるっと一周できる遊歩道も
          整備されていました。
           2つの峰にまたがって中心的な曲輪が2つ並立しており、同様の構造は近隣の釜原城
          天ヶ谷の城平にもみられます。こうした築城構想は南北朝時代前後に多くみられ、これらの
          3城も戦国時代中期までには築かれていたことを示していると考えられます。
           他方で、舟ヶ谷城も含めた周辺4城の特徴として、尾根という尾根に堀切を設け、釜原城
          以外は主郭の脇に横堀を設けている点が挙げられます。これらの造作は、現地の説明板に
          あるとおり、高天神城攻めにおける武田氏の拡張と見るのが妥当でしょう。そうなると、新野
          の4城は菊川の入り江を挟んで高天神と直接対峙する武田方の前線基地だったことになり、
          当時の緊張感が伝わってくるような気がします。
           ちなみに、本郭から舟ヶ谷城方面へ西に伸びる尾根には二重堀切がありますが、そのすぐ
          北側にも、現地説明板や『日本城郭大系』等の縄張り図には記載されていない二重堀切が
          残っています。それほど見付けにくい場所ではないので、私が初めて発見したという可能性
          は薄そうですが、近接して4本の堀切があるとういのは珍しいと思うので、ぜひ見落とさない
          ように見てみてください。

           
 南から八幡平の城跡を望む。
想慈院の説明板。 
 竪堀を兼ねた大手道。
本郭南東中腹下段の横堀。 
 同上。
南東尾根の二重堀切。 
 上段の横堀。
同上。 
 本郭のようす。
本郭西尾根1本目の堀切。 
 舟ヶ谷城方面尾根の二重堀切その1。
その2。 
 現地縄張り図等に記されていない
 二重堀切その1。
その2。 
 本郭説明板より、二重赤線のあたりに
 二重堀切があります。
本郭と二の郭の間の堀切その1。 
 その2。
その3。 
 二の郭のようす。
二の郭西側尾根の堀切。 
 二の郭の北端側。
 城外方面に向けてなぜか登っています。
北端の二重堀切。 
 二重堀切その1。
その2。 
 二の郭北東尾根の堀切。
二の郭東側中腹の横堀。 


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