舟ヶ谷城(ふながや)
 別称  : 舟ヶ谷の城山、新野新城
 分類  : 山城
 築城者: 新野氏
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR東海道本線菊川駅からバスに乗り、
      「新野」下車徒歩20分


       <沿革>
           今川家臣新野氏の居城とされる。新野氏は今川氏の庶流で、今川基氏の弟・俊氏の子・
          俊国を祖とするとされる。事実とすれば、基氏の子・範国が遠江守護となった後に、新野に
          入植して分家したものと推測される。それ以前から、在地領主として別個に新野氏があった
          といわれるが、詳細は不明である。今川流新野氏は当初、八幡平の城(新野古城)を居城
          としていたとされるが、舟ヶ谷城へ移った経緯は明らかでない。
           新野氏でとくに著名なのは、井伊氏を救ったといわれる新野左馬助親矩であろう。親矩は
          信濃国の武士・上田晴昌の子で新野親種の養子となったともいわれる。親矩の妹(祐椿尼)
          は井伊谷城主井伊直盛の正室で、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎
          (次郎法師)は親矩の姪にあたる。
           永禄三年(1560)に桶狭間の戦いで直盛が今川義元らと共に戦死すると、直盛の従弟で
          ある直親が井伊氏を継いだが、義元の子・氏真の嫌疑を受け同五年(1562)に誅殺された。
          このとき氏真は直親の遺児・虎松の殺害も命じたが、親矩は助命嘆願して虎松母子を自邸
          に匿ったとされる。
           親矩はその後も、衰勢著しい今川家に忠節を尽くし、永禄七年(1564)の曳馬城攻めで
          井伊氏庶流・中野直由らと共に討ち死にした。井伊氏と虎松を後見する両名の死を受けて、
          女城主として家督を継承したのが井伊直虎である。また虎松は、後に徳川家康に出仕して
          井伊直政と名乗り、彦根藩祖となった。
           親矩死後の新野氏および舟ヶ谷城の動静は詳らかでない。親矩の子・新五郎は武田氏
          の駿河侵攻を受けて遠江を離れたとみられ、後北条氏に仕えている。


       <手記>
           舟ヶ谷城は新野川に沿って伸びる峰の一端にあり、稜線を遡ると八幡平の城に行き着き
          ます。大河ドラマで注目されたこともあってか、南麓から登山道が整備されており、登山口
          付近には説明板や「舟ヶ谷城」の看板も建てられています。
           縄張り図を見るとやけに細長い城のように感じられますが、これはよりにもよって主郭部
          がごっそりと採土で削り取られているからのようです。そのため、曲輪としてはっきり残って
          いるのは、主郭部のひとつ北の小ピークにある北曲輪くらいでした。
           他方で、舟ヶ谷城は細い尾根筋に多数の堀切を穿っているのが特徴です。ただ、遺構と
          して見ている分には楽しいですが、実戦を想定すると山容自体は緩やかなので、曲輪形成
          もできない細尾根にいくつも堀切を設けたとて、どれほど防備の役に立ったのかは議論の
          余地があるかと思われます。
           とはいえ、尾根という尾根に堀切を穿つという構造は八幡平の城や西の天ヶ谷の城平
          釜原城にも見られ、現地の説明の通り高天神城攻めに際しての武田氏の拡張とみるべき
          であろうと考えられます。

           
 南から舟ヶ谷城跡を望む。
 画面中央に城跡の看板が見えます。
登城口の説明板と看板。 
 尾根筋の段曲輪。
1号堀切。 
 尾根筋の堀切。
2号堀切。 
 3号堀切。
4号堀切。 
 主郭下の1号横堀。
2号横堀。 
 5号堀切。
6号堀切その1。 
 6号堀切その2。
7号堀切。 
 北曲輪を見上げる。
北曲輪からの眺望。 
 主郭切岸上のようす。
 左側の抉れ地形が主郭跡。
主郭南東尾根の堀切。 


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