野火止陣屋(のびどめ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 松平輝貞
 遺構  : 土塁
 交通  : JR武蔵野線新座駅または東武東上線朝霞台駅よりバス
       「陣屋」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           宝永元年(1704)、高崎藩主松平輝貞は、川越藩主柳沢吉保の甲府転封に伴い、その旧地内
          から3千石を加増された。この地は、かつて輝貞の祖父信綱が川越藩主時代に野火止用水を開鑿
          した土地であり、輝貞の兄信輝が元禄七年(1694)に古河藩へ転封となるまでは、松平氏が川越
          藩主であった。輝貞は信綱の五男信興の養子となって別家を立てていた。
           輝貞は、父輝綱が信綱の菩提寺として建立した平林寺の門前に野火止陣屋を建設した。陣屋の
          周囲には、野火止用水から分水した陣屋堀を巡らせ、周辺に住む人々のための用水堀とした。
           輝貞は宝永七年(1710)に一度失脚して越後村上藩へ転封となるが、享保二年(1717)に再び
          高崎藩主に返り咲いている。この間野火止の所領がどうなっていたのかは詳らかでない。最終的
          に新座郡に5ヶ村を領し、高崎藩は輝貞から10代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           野火止陣屋は、平林寺の門前東側にあったとされています。その名も「陣屋」というバス停から
          東へ向かうと、右手に土塁が見え、その脇に野火止用水陣屋堀に関する説明板があります。それ
          によると、この土塁は用水の築堤であり、陣屋の外周というのはサブの役割であったものと思われ
          ます。古絵図から察するに、陣屋はこの土塁の南側に立地していたと思われますが、畑地となって
          いて遺構等はありません。
           陣屋跡の西には平林寺の広大な敷地と森が広がっています。寺のHPによれば、岩槻から移転
          が計画された際、当時の住持は水に乏しい土地は嫌だと駄々をこね、野火止用水の開鑿に成功
          すると、手のひらを反して賛成したのだということです。その野火止用水は、現在も平林寺境内の
          裏を静かに流れています。そこから東側へと水を安定供給する目的もあって、陣屋と陣屋堀が建設
          されたのかな、とも考えられます。

           
 陣屋堀説明板と築堤土塁。
土塁を左手に、陣屋を右手に見る。 
 説明板から平林寺方面へと延びる土塁。


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