中城(なか)
 別称  : 猿尾城
 分類  : 平山城
 築城者: 猿尾氏か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 東武東上線/JR八高線小川町駅徒歩15分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』の増尾村の項に、「土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりと
          いへど 何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」とある。猿尾氏
          は増尾村の開発領主で「ましお」氏と読むとみられているが、やはり詳しい出自や経歴は
          定かでない。『日本城郭大系』には、室町時代初期に斎藤重範なる人物の居城であった
          とする伝も記されているが、こちらも詳細および真偽は不明である。
           一方、鎌倉時代中期の文永六年(1269)に『万葉集註釈』を著した天台宗の僧仙覚は、
          同書の奥書に「武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所」にて書き終えたことを記述している。
          この「麻師宇郷(ましうごう)」は増尾(猿尾)を指すとして、中城を奥書の政所に比定する
          向きがある。そのため、中城跡は「仙覚律師遺跡」として県の旧跡に指定されている。
          仙覚は源頼朝の乳母比企尼に連なる比企氏の出身ともいわれるが、麻師宇郷との関係
          については定かでない。


       <手記>
           中城は、小川町の市街地に臨む舌状の丘の上に立地しています。車の場合は、北麓
          の陣屋沼緑地の西側を下ったところに、砂利敷きの広い駐車スペースがあり、そこから
          城跡まで遊歩道も整備されています。
           さまざまな書籍やサイトで指摘されているとおり、主郭のおよそ半分がテニスコートに
          なっていますが、東辺を除く三方の土塁と堀が良好に残っています。おそらく南西隅が
          櫓台状に張り出しているほかは、ほぼ方形の城館だったものと思われます。となると、
          当時の土塁と堀のやはり半分ほどは残存していることになります。諸サイト等では残念
          といわれることの多いように感じますが、私としてはむしろ市街地でこれほどの遺構が
          残ってくれていることに感謝の念を覚えました。
           張り出し部に横矢をかけられる西辺に土塁の開口部があり、おそらくここが大手口と
          みられます。一見すると単郭方形の館造りに見えますが、外郭があったかどうかは不明
          です。
           櫓台状の張り出し部をもつ構造から、少なくとも現状の遺構は室町時代以降のもので
          あると推定されます。猿尾氏や斎藤氏の存在についてはなんともいえませんが、少なく
          とも仙覚律師のいた「政所」は、ここではないのではないかというのが私見です。鎌倉
          時代に丘の頂部に館や政所を設けるというのは違和感があり、直感的には南西麓の
          長昌寺付近が妥当な推定地のように思います。
           むしろ個人的には、戦国時代の上田氏との関連を考えています。上田氏は槻川上流
          に端を発するとされていますが、権現山城主松山城主となる以前の動向については
          必ずしも明らかではありません。腰越城安戸城が居城であったともいわれますが、
          確証はなく、どこかのタイミングで上田氏ないし一族が中城を居館としていたとすること
          も、十分に考えられるでしょう。

           
 北辺の堀と土塁。
北西隅の堀と土塁。 
 北辺の土塁を郭内から。
西辺の土塁の開口部。虎口跡か。 
 開口部から見た南西隅張り出し部。
南西隅の櫓台状土塁。 
 陣屋沼越しに中城跡を望む。


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