種村城(たねむら) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 種村高成か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線能登川駅徒歩20分 | |
<沿革> 六角政頼の次男伊豆守高成が、種に所領を得て種村氏を称したとされる。政頼については、六角高頼の 子で定頼の父とする説があるが、六角氏の系譜上の位置ははっきりしていない。高成は、後に和田山城を 築いて移り、和田氏を称したものとみられている。高成の子は、種村氏と和田氏に分かれたものとみられ、 種村氏には高盛や高安といった名が見受けられる。 永禄十一年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の軍を興し、観音寺城の六角父子と対立した。 織田勢が観音寺城の支城箕作城を一晩で落とすと、和田山城や観音寺城の将兵は逃散した。このとき、 種村城も織田勢に占拠され、そのまま廃城となったものと考えられる。 種村氏最後の当主大蔵大夫道成は、観音寺城落城後も守山城に拠って抵抗し、討ち死にしたとされる。 しかし、守山市発行の『守山城物語』には、道成が永禄六年(1563)の観音寺騒動で後藤賢豊を殺害した 実行役とする説を併記している。この説では、道成は六角父子と家臣団の対立の中で、責めを負って処罰 されたとされる。この場合、道成が守山城主となれたかどうか疑問が残る。 <手記> 種村城は、和田山の北西の種町にあったとされる館城です。現在、町内はすっかり宅地化や圃場整備が 進んでおり遺構は残っていません。県道の橋の脇に小さな石碑が立っているのみです。 |
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種村城址碑。 |