山崎城(やまざき)
 別称  : 天王山城、鳥取尾城、宝寺城、宝積寺城
 分類  : 山城
 築城者: 赤松氏か
 遺構  : 曲輪跡、石垣、土塁、虎口、櫓台
 交通  : JR東海道本線山崎駅/阪急京都線大山崎駅
      徒歩20分


       <沿革>
           建武五/延元三年(1338)の林直弘への軍忠状に、「山城の国山崎警固の事(中略)鳥取尾城
          五月廿九日より六月廿三日まで用害警固を致し候」とあり、文中の鳥取尾城とは山崎城のことを
          指すとみられている。足利尊氏に従って戦っていた当時の摂津守護赤松範資によって、朝廷側の
          攻勢に備えて築かれたと考えられているが、詳しい築城の経緯は不明である。
           文明二年(1470)の『野田泰忠軍忠状』には、「山名弾正殿御被官相共に山崎に着陣仕り(中略)
          城を鳥取尾山に構え在陣致す」とある。泰忠は、天王山北方の西岡を地盤とする国衆「西岡衆」の
          1人で、応仁の乱に際して東軍に属していた。「構え」とあることから、赤松氏の鳥取尾城はすでに
          一度廃されていたものと推測される。
           大永七年(1527)、管領細川高国に反旗を翻した波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波で挙兵し、
          摂津へと侵攻して山崎城を落としたことが、『二水記』に記されている。城主薬師寺九郎左衛門尉
          (国長)は、高槻城へ逃亡したとされる。
           天文七年(1538)、高国を打ち破って入京した細川晴元が、洛中洛外から人夫を集めて山崎城
          を改修し、自ら普請のようすを見に訪れたことが、『親俊日記』や『兼右卿記』にみられる。翌八年
          (1539)、晴元家臣の三好長慶が、自身の一族で政敵の三好政長討伐を強要して晴元と不和に
          陥ると、山崎城は京都と晴元の摂津の拠点である芥川城との繋ぎの城として機能したとみられて
          いる。また、長慶自身も山崎周辺に陣を構えたとされる。
           天文十八年(1549)、長慶に離反された晴元は江口の戦いに敗れて近江へ逃亡した。このとき
          山崎城も長慶に接収されたものとみられるが、三好氏時代および続く織田氏時代の動静は不明
          である。
           天正十年(1582)の本能寺の変において、備中から引き返した羽柴秀吉軍に対し、明智光秀勢
          は一度は天王山と男山を占拠したものの、勝龍寺城淀城ラインまで退き両城を修築した。この
          ことから、山崎城はすでに打ち捨てられていた状態であったと推測される。六月十三日の山崎の
          戦いで、秀吉は本陣を天王山山麓の宝積寺に布いた。天王山をめぐる戦いもあったとされている
          が、同戦いにおける主戦場は小泉川流域であり、俗にいわれるような「先に天王山を押さえた方
          が勝ち」とまでは重要視されていなかったとみられている。
           同年七月十七日の毛利輝元宛の秀吉書状に、「山崎において我等普請申し付け候」とある。
          秀吉は六月二十七日の清洲会議で山城国を獲得しており、もともとの領国であった播磨からは
          飛び地となる山城に、畿内の拠点城として山崎城を築いたものとみられる。山麓の宝積寺も居館
          ないし家臣団屋敷として城域に取り込まれ、同寺の別称「宝寺」から、秀吉の新城は宝寺城とも
          呼ばれた。
           翌十一年(1583)、秀吉は大坂城築城を開始し、翌十二年(1584)に完成をみた。『兼見卿記』
          同年三月二十五日の条には、「今朝山崎之天主ヲ壊チ取ランガ為 奉行罷リ越ス」とある。正確な
          廃城日時が分かるだけでなく、山崎城に天守建築があったことを知ることのできる貴重な史料と
          いえる。


       <手記>
           山崎城は天王山頂にあった城です。天王山といえば天下分け目の戦いで知られていますが、
          今日では山の確保自体は戦況にそれほど影響を与えていないと考えられています。天王山は
          淀川に片手を広げたようにのっそりと張り出した山で、西国街道はここで北は天王山、南は男山
          や淀川、そして今では存在しない永荒沼に挟まれる格好となり、要衝中の要衝となっています。
          山崎の戦いの実際の主戦場は山崎の北東の小泉川であったといわれ、明智軍は山崎の隘路に
          羽柴勢を押し込めて叩く作戦であったと推測されています。両者ともに万を超す軍を擁するなか、
          天王山には少なくとも籠って戦うに値するような城は無かったものと思われます。
           天王山自体は、広大かつ緩やかな山です。ただ、山頂の一点のみが取ってつけたように急峻
          に尖っています。巨大なかに玉にグリーンピースが乗っているような感じで、このグリーンピース
          の部分を中心に城塞が築かれています。城へは、宝積寺から酒解神社を通って登ることができ
          ます。途中には山崎の戦いにちなむ旗立松があり、古戦場を一望することもできます。
           山崎城は、山頂の主郭を中心に4〜5つほどの腰曲輪をめぐらした構造をしています。そのうち
          3つは主郭から螺旋階段状に連なっていて、それぞれ虎口で連結されているという特徴をもって
          います。主郭にはくだんの天守台とみられる高まりがあり、ここに山頂の標識と石礫の山があり
          ます。この石礫の山が天守台の石垣のものかどうかは分かりません。他方で、主郭虎口脇にも
          石垣があり、こちらは間違いなく城の遺構であると思われます。そのほか主郭周囲の土塁には、
          よくみると石垣の痕跡が散在しています。また、主郭2段下の曲輪には井戸跡も認められます。
          グリーンピースの主城域の外側にも土塁が見受けられ、ここには屋敷などの建物が構えられて
          いたのではないかと推測されます。
           総じてみると、このころの信長重臣の居城としてはあまりに規模が小さく、ましてや戦闘に耐え
          られる城とは思えません。有識者の間には山崎城を小谷城などと比較するような向きもあるよう
          ですが、私にはそれほどたいそうな規模をもった城にはみえません。おそらく、信長死後の覇権
          争いのなかで、自分がここで主君信長の仇を討ったんだぞという功績を示威し、信長家臣団に
          おける自身の地位を確立しようとしたのではないでしょうか。最大のライバルであった柴田勝家を
          滅ぼすとほどなく大坂城築城を開始し、完成とともに山崎城をあっさりと廃城にしていることからも、
          この城の役割のほどがうかがえます。

           
大山崎駅から天王山を望む。
主郭のようす。 
 主郭の天守台と思しき高台。
主郭虎口。 
 主郭下1段目の曲輪。
1段目の曲輪虎口より2段目の曲輪を望む。 
左手奥に井戸遺構が見受けられます。 
 3段目の曲輪。
 主郭背後の腰曲輪。 
 主郭周囲の石垣痕跡。
同上。 
 同上。
主城域外側の土塁。 
 主城域を見上げる。
おまけ:旗立松より山崎の合戦場を望む。 
高速道路に沿って主戦場の小泉川が流れています。 


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