芝生城(しぼう)
 別称  : 池田城
 分類  : 平山城
 築城者: 三好義長か
 遺構  : なし
 交通  : JR土讃線阿波池田駅からバスに乗り、
      「太刀野東川原」下車徒歩7分


       <沿革>
           三好氏初代三好義長の居城として築かれたと伝わる。三好氏は小笠原氏の一族とされるが、
          義長に至る系譜は判然としない。一般には、阿波守護を務めた小笠原長房ではなく、同族で
          信濃守護となった小笠原政長の孫が義長とされる。
           義長の孫の之長は阿波守護細川成之・政之父子に仕え、京都で土一揆を扇動するなどして
          存在感を発揮し、細川管領家にも属するようになった。細川高国と細川澄元による管領家の
          家督争いのさなか永正十七年(1520)に命を落としたが、その孫の元長もまた、澄元の子晴元
          に仕えて活躍した。しかし、その影響力の大きさを危険視した晴元や権臣の木沢長政らにより
          一向一揆を扇動され、天文元年(1532)に堺で敗死した。
           この元長の嫡男が、三好氏の最盛期を創出した三好長慶である。長慶は芝生城で大永二年
          (1522)に生まれ、生母は妊娠を覚ると吉野川で水垢離を行い、英傑を授かるように祈願したと
          伝わる。弟の三好実休(之虎/義賢)や安宅冬康、十河一存もそれぞれ高名であるが、彼らも
          芝生城の生まれであるかは定かでない。
           長慶が成長するころ、元長を追い落とした木沢長政は、自身が扇動した一向一揆を抑制する
          ために法華一揆に目を付けたものの、今度はその法華一揆に手を焼くようになった。そもそも
          元長が一向一揆の標的となったのは、三好氏が法華宗の庇護者であったためであり、長政は
          長慶の細川家臣復帰を仲介することで、一向宗や法華宗を抑え込もうと考えた。
           天文二年(1533)、長慶は一向宗と晴元の和議を成立させたのを皮切りに、同年に越水城
          攻め落とすなど麒麟児の頭角を現した。以後、長慶は畿内を活動の中心とするものの、表向き
          の居城はなおも本貫の芝生城であったとみられる。
           天文八年(1539)、長慶は幕府に河内十七箇所の代官職を要求した。同職は父元長が任命
          されていたものの、一族でありながら政敵でもある三好政長に奪われていた。しかし、要求は
          容れられず、摂津に留まった長慶は越水城に入り居城とした。
           これ以後の芝生城については詳らかでない。天正三年(1575)ごろ、実休の子で勝瑞城主
          の三好長治が芝生城に滞在したとも伝えられ、このころまでは、三好方の支城として存続して
          いたとも考えられている。


       <手記>
           芝生城は、吉野川と河内谷川の合流点に臨む、河岸の角を利用した城です。天下人にまで
          昇り詰めた三好長慶の出世の地として立派な石碑や説明板が建てられていますが、城地は
          江戸時代に用水を通して開墾したため、遺構はありません。拓けた土地を歩いて、往時を偲ぶ
          ほかないでしょう。
           歩きながら考えていたのは、三好氏の出自のことです。阿波小笠原氏は南北朝時代に北朝
          の守護細川氏に敗れたとはいえ、一宮氏や七条氏など庶流が国人として続いており、三好氏
          だけが信濃小笠原氏(しかも当主の甥)を祖とするというのは不自然に感じます。むしろ、信濃
          には明らかに阿波由来とみられる板西氏が飯田城を築いており、南朝方であった小笠原氏の
          庶流に同族の信濃小笠原氏を頼った者がいることは容易に想像できますが、その逆は現実的
          な理由がにわかには思い浮かびません。
           また、阿波小笠原氏の礎を築いた小笠原長房は大西城から岩倉城に進出したとされ、その
          流れに従うと、芝生城の位置では後退している点も気になります。あるいは、阿波小笠原氏の
          一族の中でも三好氏はかなり傍流だったため、勢力を拡大してから信濃小笠原氏嫡流の流れ
          を汲むと仮冒したのではないかと、個人的に思いを巡らしました。

           
 芝生城跡説明板。
三好長慶公生誕之地碑。 
 芝生城跡現況。


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