獅子ヶ谷城(ししがや) | |
別称 : 御薗城、獅子ヶ谷殿山 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小田切氏か | |
遺構 : 削平地、土塁跡、堀跡 | |
交通 : JR横浜線他新横浜駅または 東急東横線大倉山駅よりバス 「表谷戸」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』によれば、慶長年間(1596〜1615)に小田切氏が居館を営んで いたとされる。小田切氏は、『ェ政重修諸家譜』によれば信濃国佐久郡小田切村の土豪で、 戦国時代後期には武田氏の家臣であった。天正三年(1575)の長篠の戦いで小田切光季 が戦死し、後に光季の子光猶が徳川家康に仕えたとされる。 光猶は、慶長二年(1597)に相模国橘樹郡に所領150石余を得た。獅子ヶ谷に館を設けた のはこのときとみられる。 『記稿』には、獅子ヶ谷城の居住者として小田切美作守の名を挙げている。美作守は光猶 の子須猶を指すと思われるが、『家譜』によれば小田切氏は光猶の代の慶長十二年(1607) に江戸へ移住したとされる。江戸移住に際して、屋敷地の一部が横溝家に与えたとされる。 横溝家は獅子ヶ谷村の名主を代々務め、17代を数えて今日に至っている。 『多摩丘陵の古城址』によれば、横溝家には獅子ヶ谷城を御薗城と呼び、御薗氏が住して いたとする言い伝えがあるとされる。御薗氏が何者であるかは不明だが、あるいは小田切氏 以前にすでに城館が営まれていた可能性も指摘できる。 <手記> 獅子ヶ谷城は、鶴見川南岸の入り組んだ丘陵地帯の一角の緩やかな半独立丘にあったと されています。南東麓には獅子ヶ谷村名主横溝家の屋敷が残っていて、「横溝屋敷」として 一般公開されています。城は屋敷の裏山にあたり、一帯は「みその公園」として歩道が整備 されています。 頂上は広く見晴らしの良い平坦地となっています。周囲には土塁跡や堀跡とみられる遺構 が散見されるとのことですが、城館の遺構なのか後世の耕作等によるものなのかは、判別し にくいように思われます。頂上平坦地の北東隅付近には一段低い畑となっている部分があり、 腰曲輪のように見えなくもないですが、これも何ともいえません。また、頂上平坦部の南東の 遊歩道脇にも、こちらはややはっきりと出丸のような削平地が認められます。 これらから、獅子ヶ谷城は頂上の広い平坦部を主郭とする、ほとんど単郭の城であったと 考えられます。とすると、自然な疑問として湧くのは、家康の関東入封に従った小田切氏に よる築城とするなら、あまりに縄張りが単純すぎるという点です。前線というわけでもないのに、 物見台のような単郭の城を築く必要性はほとんど皆無でしょう。むしろ慶長という時代を考え れば、この程度の城砦なら築くだけ労力の無駄とさえいえます。 そこで指摘されているのは、獅子ヶ谷城は後北条氏時代にすでに存在し、小机城の支城と して機能していたのではないかというものです。しかし、金子城、榎下城、茅ケ崎城など当時 の小机城の支城とされる諸城郭と比較すると、明らかに旧態依然とした稚拙な縄張りにとど まっていることがわかります。戦国時代にあっても、物見や兵の駐屯以上の役割は期待でき なかったと思われます。 前掲の『古城址』で、著者の田中祥彦氏はその期限を鎌倉時代にまで遡って求める説を 提示しています。たしかに、縄張りだけから推測すれば鎌倉時代から室町時代初期にかけて のものとみるのは妥当ではないかと思います。さらに、田中氏は獅子ヶ谷城が、鶴見川下流 南岸一帯にあった「師岡保」の軍事的拠点であったのではないかと推測しています。 いずれにせよ、史料的裏付けは困難なものの、獅子ヶ谷城の歴史が小田切氏よりもかなり 前に始まるものであるというのは、間違いないだろうと思われます。さらに私見としては、城主 の居館とされる横溝屋敷は、地形的に見て少々東に寄り過ぎているように感じます。実際の 城主の館は、横溝屋敷南西の殿山の窪んだあたりにあったとみるのが妥当なように感じられ ます。横溝氏が小田切氏屋敷の「一部」を譲られたとする記述からも、その点は示唆できるで しょう。横溝屋敷は殿山の細尾根の先端にあたり、居館というよりは大手口の根小屋が営ま れていたのではないかと、個人的に考えています。 |
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獅子ヶ谷城址(殿山)を東方より望む。 | |
横溝屋敷と殿山。 | |
殿山頂上の主郭とみられる平坦部。 | |
頂上北東隅の畑地。 腰曲輪か。 |
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横溝屋敷から殿山への登城路。 手前両側は切岸状になっているようにも見えます。 また、奥の歩道脇は腰曲輪と思われます。 |