末森城(すえもり)
 別称  : 末盛城
 分類  : 平山城
 築城者: 織田信秀
 遺構  : 曲輪跡、空堀、土塁
 交通  : 市営地下鉄本山駅または覚王山駅より徒歩5分


       <沿革>
           那古野城を奪って勝幡城から移った織田信秀は、誕生間もない嫡男信長に那古野城を譲り、
          自身は古渡城を築いて移った。信長元服後の天文十七年(1548)には、信秀はさらに末森城を
          築いて移った。末森の北に位置する守山城の弟信光と連携して今川氏に備えるためとされる。
           信秀は末森城で病死したが、没年には天文十八年(1549)から同二十一年(1552)まで諸説
          あり定かではない。末森城主は、信長の弟信勝(信行)が継いだ。
           信勝は家督を巡って信長と対立し、弘治二年(1556)に柴田勝家や林秀貞らとともに謀反を
          起こした。稲生の戦いに敗れて一度は矛を収めたものの、翌年再び謀反を企てたため、信勝は
          信長の居城清洲城に誘殺された。信勝死後の末森城については不明であるが、遅くとも信長
          の岐阜入城までには廃城になったものと考えられている。なお、文書には縁起を担いで末盛城
          とも書かれている。


       <手記>
           城は南向きの台地の先端に築かれ、城域は現在城山八幡宮となっています。かなり規模の
          大きな神社で、主城部のほとんどを社域とし、敷地内のいたるところに空堀や土塁が良好な形
          で残されています。主殿前参道となっている曲輪跡の一隅に城址碑が立っています。
           この空堀は実に圧巻で、深い上に途切れることなく曲輪を巡っているようすが容易に見て取れ
          ます。案内板や神社の縁起には、早くから神社の社地とされたために当時の遺構が奇跡的に
          残されることになったとありますが、各地の城跡を訪ね歩いている身としては、むしろ寺社仏閣
          の敷地にありながらこれだけ良好に遺構が保存されていることこそ奇跡といえると思います。
           堀の深さや、かつては丸馬出しがあったということから、信勝死後すぐに廃城されたとは考え
          にくく、信長が戦国大名としてある程度成長するまでは、改修されつつ使用されていたのでは
          ないかと思われます。


           
 末森城址近望(現城山八幡宮)。
末森城址碑。 
 空堀と土塁。


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