館山城(たてやま)
付 館山陣屋および藤井陣屋
 別称  : 根小屋城
 分類  : 山城
 築城者: 里見義康
 遺構  : 曲輪跡、堀
 交通  : JR内房線館山駅からバスに乗り、
      「城山公園前」下車徒歩5分


       <沿革>
           天正十五年(1587)に岡本城主里見義頼が病没すると、その子義康は館山の根古屋山に
          新たな居城の普請を開始した。同十八年(1590)夏ごろに完成して移転したとされるが、築城
          の経緯については詳らかでない点も多い。江戸時代中期に成立した『房総里見誌』によれば、
          館山移転は義頼の発案とされる。また、同書では義頼の言として「館山の古城は往昔平判官
          貞政という者居住せし所なり」とあり、それ以前に城館が営まれていたともみられる。ただし、
          同書の内容を裏付ける史料はなく、平貞政に相当する人物も不明である。
           義康は館山移転直前の小田原の役において曖昧かつ独自の行動をとったことを豊臣秀吉
          に咎められ、安房一国9万石余に減封された。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に
          属し、12万石余に加増された。
           慶長十九年(1614)、義康の子忠義は、老中大久保忠隣の孫娘を妻としていたこともあり、
          忠隣の失脚に連座して改易され、伯耆国倉吉藩へ移された。館山藩はそのまま廃藩となり、
          館山城も破城となった。
           寛永二年(1625)、旗本の石川政次が4500石を得て、館山城の旧総構え内に藤井陣屋を
          設けた。藤井陣屋は、18世紀には同じく旗本の川口家が在所としたとされる。
           天明元年(1781)、旗本稲葉正明が田沼意次のもとで出世し、加増を受けて都合1万石の
          大名となって館山藩を再興した。正明は藤井陣屋とは別に、旧館山城南東麓に館山陣屋を
          設けた。稲葉家は5代を数え、明治維新を迎えた。


       <手記>
           館山城は館山平野や館山湾を見下ろす独立山上にあり、城を築くのにお誂え向きのような
          地勢です。館山や根古屋山といった山名からして、義頼以前に中世城館があった可能性は
          充分にあるようには思います。ただし中世の規模感では、山上が広すぎて使いづらかったの
          かもしれません。
           今日では、山頂の模擬天守を中心として城山全体が公園化されていて、北東麓に駐車場
          も完備されています。そこから山上までシャトルカーが運行されているのですが、使い勝手が
          悪いのか、私も含め利用する人はほとんどいないようでした。歩いて登っても、本丸跡までは
          10分もかかりません。
           模擬天守はどの面も同じようなデザインの方形をしているように思えますが、南北から見る
          と典型的な望楼型で、とくに下から見上げると岐阜城天守に似ています。もちろん、最上階
          からの眺めは絶佳です。
           一方、城跡として見ると、館山城は短命とはいえ近世まで存続した山城であったにもかかわ
          らず、縄張りすらはっきりしないほど全体像がよくわかりません。削平地は散見されますが、
          公園化されているので、どこまでが当時の造作かは不明です。南東麓の館山陣屋跡へ下る
          道すがらに堀切跡が見られるのが、城跡らしい唯一の地形と思われます。
           館山陣屋跡は、宅地化されていて遺構はありません。生活道路が鉤手に折れているあたり
          に、雰囲気を嗅ぎ取るくらいです。そこから南東へ歩いた慈恩院には里見義康の墓があり、
          さらにその東方には貴重な遺構の1つである鹿島堀があります。館山城の外郭堀の一部で、
          当時は付近に大膳山や御霊山といった小山があり、それらを包摂する形で長大な総構え堀
          が設けられていたようです。御霊山は残っていますが、大膳山は崩されてやはり宅地が造成
          されています。
           藤井陣屋は慈恩院の北、大膳山の西麓付近に営まれていたそうです。藤井とは名字かと
          思ったのですが、このあたりにあった井戸にちなむ地名のようです。こちらも宅地で、遺構は
          おろか詳しい位置も分かりません。
           館山城は、上述の通り城を築くのに適した山ではあります。ただし、進出方向が下総方面に
          限られ、上総の佐貫城久留里城を居城としてきた里見氏にとって、岡本城より南の館山城
          へ移るということは、勢力拡大の意思を放棄しているように感じます。拡大路線から専守防衛
          へ転換したとも考えられますが、小田原の役での行動を見ると違和感もあります。あるいは、
          安房一国に減封されてはじめて、館山城移転が計画されたとみることもできるのではないで
          しょうか。

           
 駐車場付近から館山城模擬天守を見上げる。
途上途中の平場。遺構なのかは不明です。 
 山頂を見上げる。
 切岸にも見えますが…。
模擬天守。 
 同上。
同上。 
 同上。
 この角度からだと岐阜城天守に似ています。
天守から西方を望む。 
 天守から北の館山市街地を俯瞰。
天守から南の本丸跡を俯瞰。 
 本丸跡の城址碑。
虎口跡のように見える地形。 
 公園内の平場。
同上。 
 南東尾根筋の堀切状地形。
同上。 
 南東麓近くの八遺臣の墓。
館山陣屋跡現況。 
 同上。
慈恩院の里見義康墓。 
 鹿島堀。
藤井陣屋跡周辺現況。 


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