木越城(きごし)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 遠藤盛胤か
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口
 交通  : 長良川鉄道郡上八幡駅からバスに乗り、
      「道の駅明宝前」下車徒歩20分


       <沿革>
           郡上東氏家臣遠藤盛胤によって築かれたとされるが、確証はない。盛胤は、遠藤氏の系図に
          よれば篠脇城主東常縁の子とされるが、平姓千葉氏流東氏の庶流が遠藤を称するのは不自然
          であり、実際には東氏の古くからの家臣筋であったとみられている。東氏の祖である東胤頼の
          妻は遠藤左近将監持遠の娘とされ、その関係も指摘する向きもある。ただし、早い段階で養子
          が入っていたり、さらなる縁戚関係を結んでいたりという可能性も否定できない。
           天文九年(1540)、小多良郷和田会津の領主和田五郎左衛門の勢力拡大を恐れた常縁の孫
          常慶は、盛胤の孫にあたる胤縁・盛数兄弟に命じて五郎左衛門を暗殺させた。五郎左衛門は
          胤縁の子胤基の子といわれるが、胤基は天文十七年(1548)生まれとされ、辻褄が合わない。
           天文二十一年(1552)、盛数は常慶の命で下川筋の河合七郎を攻め滅ぼし、その所領を与え
          られて鶴尾山城主となった。これにより、遠藤胤縁が単独の木越城主となったとされる。
           常慶は、嫡男常尭に胤縁の娘を娶わせようとしていたが、胤縁は常尭の非道を理由に拒絶し、
          畑佐城主畑佐備後の子六郎右衛門信国に嫁がせた。これを恨んだ常尭は、永禄二年(1559)
          に八朔の祝いで参上した胤縁を、家臣長瀬内膳に命じて射殺させた。
           これに対し、盛数は胤縁の子胤俊と共に弔い合戦と称して1千の兵を集め、常慶・常尭父子を
          居城の東殿山城(赤谷山城)に攻め滅ぼした。盛数は新たに八幡城を築いて移り、胤俊は東・
          遠藤領を盛数と二分して木越城主となり、両者は「両遠藤」と呼ばれて並び立った。
           永禄七年(1564)、斎藤家臣竹中半兵衛重治が稲葉山城を奪取すると、若年で盛数の跡を
          継いでいた慶隆は後見人の長井道利のもとにあり、その隙に胤俊が八幡城を占拠した。しかし、
          まもなく城が斎藤龍興に返還されると、翌八年(1565)に道利の支援を受けた慶隆が城へ迫り、
          和議を結んで撤退した。
           斎藤氏が織田信長に滅ぼされると、両遠藤とも信長に従い、胤俊は元亀元年(1570)の志賀
          の陣で戦死した。跡を弟の胤基が継ぎ、基本的に慶隆と共同歩調を取っている。
           天正十一年(1583)、本能寺の変後に羽柴秀吉と織田信孝が対立すると、両遠藤は信孝に
          属して秀吉方の勢力と武儀郡立花山で対峙した。森長可らに囲まれた遠藤勢は飢えに苦しみ、
          玉砕を覚悟するほどであったが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れ、信孝も降伏したとの報せが
          敵将の佐藤秀方から届くに及んで降伏した(立花山の戦い)。
           この後、両遠藤氏は秀吉配下として忠勤に励んだが、天正十六年(1588)に立花山の戦いで
          の反抗などを理由に、突如として胤基は犬地5500石へ、慶隆は小原7500石への減転封を命じ
          られた。これにより木越城は廃城となったとみられる。ちなみに、慶隆は関ヶ原の戦いで八幡城
          に返り咲いたが、胤基の子胤直は西軍に属して改易となった。


       <手記>
           木越城は、長良川右岸のほぼ独立した小山に築かれています。南東麓に金松館という旅館が
          あり、その脇から登山道が付いています。登山口の説明板には、一説に慶隆の妹とされる山内
          一豊の妻見性院についての解説があり、たしかに事実とすれば木越城で生まれた可能性がある
          でしょう。ただ、慶隆の妹が一豊に嫁ぐ謂れがなく、個人的には事実でないと考えています。
           登り道はあまりはっきりとしていませんが、山中は明るい植樹林なので迷うこともないでしょう。
          しばらく登ると、虎口跡とみられる石塁の痕跡が現れます。付近は2〜3段ほどのやや広い曲輪と
          なっていて、大手の施設などが構えられていたものと推測されます。石積みはちらほらと散見され
          るので、城の末期である豊臣時代にはかなりの範囲に石塁が用いられていたのかもしれません。
           上段の曲輪を南西方向にスライドすると、おそらく城内最大の見どころの1つであろう大竪堀が
          お目見えします。見上げんばかり一直線の立派な竪堀で、かつ脇にこれまだ大規模な竪土塁を
          伴っています。この土塁を越えてされにスライドすると、腰曲輪の向こうにもう1本縦方向の土塁が
          見られます。
           私は面倒がってこの土塁に沿って斜面を直登したのですが、ちょっと苦労した先にはご褒美が
          待っていました。土塁のどん詰まり付近に、私が見た限り城内で最も残りのよい石塁があったの
          です。尾根先からの正規とみられるルートだと、この石塁は足元に隠れて容易には気づけないで
          しょう。怪我の功名とまではいいませんが、まったくの幸運奇遇でした。
           主郭の虎口や切岸にも石積みの跡がみられますが、主郭の内部は植樹エリアから外れている
          ようで、だいぶ藪となっていました。主郭の背後には2〜3段の腰曲輪が続いていますが、堀切は
          みられず、そのまま急斜面が落ち込んでいます。

           
 木越城跡遠望。
登山口の標柱。 
 虎口跡と石積み跡。
同じく石塁跡。 
 同上。
尾根先端中腹の腰曲輪群の1つ。 
大手曲輪か。 
 その上の腰曲輪。
さらにその上の腰曲輪の切岸面。 
石塁跡か。 
 大竪堀と竪土塁。
大竪堀の下部。 
畝状になっているものか。 
 大竪堀脇の腰曲輪。
その奥にあるもう1本の竪土塁。 
 竪土塁上のようす。
竪土塁突き当りの石塁跡。 
 主郭下の虎口跡。
 主郭切岸を見上げる。 
 主郭脇の切岸。
主郭のようす。 
 主郭背後1段目の腰曲輪。
同じ2段目。 
 主郭背部の急斜面。


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