勝山城(かつやま)
 別称  : 城山
 分類  : 山城
 築城者: 小山田信有(越中守)
 遺構  : 曲輪跡、石塁、土塁、堀
 交通  : 富士急行谷村町駅徒歩15分


       <沿革>
           享禄三年(1530)、郡内領主小山田氏のそれまでの居館である中津森館が火災に
          より焼失したことを受け、小山田越中守信有は谷村に新たな居館の建設を開始した。
          谷村館と桂川を挟んだ対岸の勝山には詰城が築かれた。信有は享禄五/天文元年
          (1532)に谷村館へ移ったとされ、勝山城もこの前後に完成したと思われる。越中守
          信有の後、出羽守信有、弥三郎信有(三代続けて同名)、左兵衛尉信茂と小山田氏
          はこの地にあって郡内地方を支配した。
           信茂は、武田家の重臣として後世には武田二十四将にも数えられたが、天正十年
          (1582)の織田氏による武田攻めに際して武田勝頼を裏切り、武田氏を滅亡に追い
          込んだ。この裏切りを不忠として信茂ら小山田一族は織田信長に誅殺された。
           同年六月に本能寺の変が起きると、北条氏が郡内へ兵を進めた。このとき勝山城
          は北条氏によって改修を受けたともいわれるが、確証はない。甲信州の領有をめぐる
          いわゆる天正壬午の乱の結果、甲斐は徳川氏の領国となり、郡内には鳥居元忠や
          服部正成(半蔵)らが入った。
           天正十八年(1590)に北条氏が滅び、徳川氏が関東に移封されると、豊臣秀吉の
          甥で秀次の弟である豊臣秀勝が甲斐・信濃2国を与えられた。勝山城代には家臣の
          三輪近家が任じられたが、秀勝は8か月ほどで岐阜へ転封となった。
           秀勝の後には加藤光泰・貞泰父子が甲斐に入国し、光泰の養子の光吉が郡内を
          治めた。光泰没後の文禄三年(1594)、加藤氏は美濃黒野へ移封となり、代わって
          浅野長吉(長政)・幸長父子が甲斐に入った。勝山城代には一族の浅野氏重(知近、
          良重)が任じられた。氏重によって勝山城は改修され、現在にみる縄張りに仕上げ
          られた。そのため、資料によっては氏重が勝山城の築城者とされることもある。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、浅野幸長は紀伊国へ移封となり、甲斐国は
          徳川氏の直轄領となった。郡内領2万石は、かつて鳥居元忠が統治していた経緯を
          踏まえ、元忠の三男成次が預かった。元和元年(1615)、将軍徳川秀忠の次男忠長
          が甲斐国主となり、成次は忠長の附家老という立場で、郡内領を引き続き治めること
          になった。しかし、寛永八年(1631)に忠長が所領没収のうえ蟄居とされると、成次も
          除封となった。郡内は天領となり、幕臣の本堂茂親が城代に任じられた。
           寛永十年(1633)、秋元泰朝が1万8千石で郡内に入封し谷村藩を立藩した。藩庁
          は谷村館を転用した谷村陣屋であるが、『甲州谷村城絵図』には、谷村城と内橋で
          結ばれた勝山城も描き込まれている。秋元家は富朝、喬知と続き、喬知は宝永元年
          (1704)に川越へ転封となった。これにより谷村藩は廃藩となった。勝山城もこのとき
          廃城となったと思われるが、詳細は定かでない。


       <手記>
           勝山城は、桂川の渓谷沿いの半独立丘を利用した城です。北と東を桂川の渓谷が
          深く削り、西のみ峰続きで、南麓にのみ平坦地をもっています。山頂の主郭を中心に
          北・東・南の三方の尾根筋に曲輪を設けるというものです。本丸には東照宮が祀られ、
          神社の裏手は櫓台状に盛り上がっています。本丸の北と南側の斜面には一部石垣
          が残っています。とくに、南側の石垣には加工された隅石が使用されていて、早くとも
          秀勝以降の石垣であると推測されます。
           二の丸と三の丸は南の尾根上に階段状に並び、その先には「川棚見張り台」と呼ば
          れる曲輪があります。東の尾根筋には小さな曲輪が雛壇状に続き、硝煙蔵というやや
          広い曲輪に至ります。その先は少し下ったところに「源生見張り台」があります。西の
          また尾根を下ると、堀切と土橋を越えた先に細長い「大沢見張り台」があります。ここ
          は、宇治から江戸へ徳川家御用の茶を届ける御茶壺道中の茶壺蔵があったと推測
          されていますが、発掘調査からは確認されていません。
           城の西側は切岸によって急崖となっているうえ、堀が設けられています。こちらから
          攻めるのは困難であったと推測されます。城山の南西の平坦部には外堀の跡と思わ
          れる一段低い田地と宅地がL字状に見られます。この外堀跡は市販の地図でも確認
          できます(上の地図では分かりませんが…)。
           勝山城は、江戸時代には谷村城と内橋で連結され、谷村城の詰城として機能して
          いたと考えられます。ただし、小山田氏時代にも城があったかについては確証があり
          ません。勝山城が浅野氏によってはじめて築かれたとする説をとる人は、小山田氏
          の時代の詰城を岩殿城と推測しています。ですが、岩殿は谷村からはかなり離れて
          いて、緊急時の城としては位置的に不適当と考えます。やはり、勝山城は小山田氏
          によって詰城として築かれたとみるのが妥当ではないかと思います。
           むしろやや勝手な私見ですが、近世谷村陣屋を小山田氏の谷村館跡と考える見方
          に疑問の余地があるのではないかと考えています。勝山城は南西麓に外堀を有して
          いることから、存続している間は、その内側に根小屋施設があったと推測されます。
          この根小屋は三方を山に囲まれ、残る一方は桂川の渓谷に面している要害の地です。
          そして、川を渡った対岸に街道や町場を扼することができることから、勝山城の麓は
          中世の館が営まれる条件を十分に満たしているといえます。とくに確証がある訳では
          ありませんが、谷村城址を無条件で谷村館跡とするのは、留保が必要ではないかと
          思っています。

           
 勝山城本丸のようす。
本丸南側の切岸。 
 本丸北側の石垣跡。
本丸南側の石垣跡。 
 二の丸のようす。
 右が本丸、左が三の丸です。
 石垣に使用された石材が散乱しています。
三の丸のようす。 
 本丸東側の帯郭。
川棚見張り台のようす。 
 硝煙蔵のようす。
硝煙蔵から本丸方面を望む。 
 大沢見張り台のようす。
大沢見張り台手前の堀切と土橋。 
堀切は竪堀となって両側に延びています。 
 本丸西側の内堀跡と切岸。
南麓の外堀跡の田地。 


BACK