大倉砦(おおくら)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR中央本線四方津駅からバスに乗り、
      「登下入口」下車徒歩20分


       <沿革>
           『甲斐国志』には「土人城山ト称ス 何人ノ居城タル事ヲ不知」とあり、明確な遺構を
          残すもののその経歴は不明である。


       <手記>
           上野原市街から鶴川を遡ると、まもなく左手に特徴的な錘型の山が見えます。これ
          が大倉砦で、城を築くにはおあつらえ向きの山容としています。
           城へは北西の登下集落、南西の大倉集落、そして東の小倉集落の3か所から登る
          ことができます。もっとも比高差が少なく容易なのは登下集落からです。私もこちら
          から登ったのですが、トッケ沢の源流に数軒の家屋が立つこの集落は、道幅が狭く
          駐車できる場所も限られているので、大きめの車の方にはおすすめできません。
          登山口は民家の隙間のようなところにありますが、案内が出ているので迷うことは
          ないでしょう。
           登り始めれば、高さはそこまでではないので10分程度で根元の峠に到着します。
          そこから先端側を見れば、仰ぎ見るような最後尾の曲輪の土塁が現れるでしょう。
          土塁下にはほとんど埋まっていますが、堀跡も認められます。
           現地の説明板などでは、大倉砦は主郭とその下の二の郭、そしてこの最後尾の
          三の郭と3つの曲輪からなる城とされています。ただし、主郭以外の曲輪については
          段築になっていたり傾斜が残っていたりして、境目は明確ではありません。この点、
          個人的には完成まで至らずに放棄されたのではないかとの感を抱いています。
           大倉砦は鶴島御前山栃穴御前山牧野砦四方津御前山、そして長峰砦
          続く縦方向の防衛ラインの北端に位置しています。直感的には、天正六年(1578)
          の御館の乱により北条氏と敵対関係となった武田勝頼によって整備され、同十年
          (1582)に未完成のまま武田氏が滅亡したと考えると、すっきりつながるように思い
          ます。
           ちなみに、登下集落は今でこそトッケ沢沿いに車道が伸びていますが、当時この
          険しい沢に沿って上り下りしていたとは思えません。おそらく大倉から砦付け根の
          峠を越えるか、小倉から山肌伝いに移動していたものと推測されます。登下集落は
          半日村どころか失礼ながら三分の一村とも呼ぶべき奥まったエリアで、耕作できる
          土地もほとんど限られています。農地開拓を目的として人が移り住むようなところ
          とはとても思えず、なぜこんなところに集落が開かれたのか謎で仕方ありません。
          なにか鉱物資源でもあったのか、それとも城番が住まわされていたのか、理由が
          気になります。

           
 大倉砦遠望。
最後尾の土塁。 
 最後尾の土塁下の堀跡。
最後尾の土塁上部。 
 三の郭の段築遺構。
 説明板には土塁とありますが、
 私見としては段曲輪だと思われます。
二の郭のようす。 
 主郭下の土塁を伴う空堀。
主郭の土塁。 
 主郭のようす。
同上。 
 主郭から上野原市街方面を望む。
主郭下の腰曲輪(二の郭の延長)。 
 先端側の枡形状虎口。
先端下の堀跡。 


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