座光寺城(ざこうじ)
 別称  : 北本城、上野北本城、上野城
 分類  : 平山城
 築城者: 座光寺氏か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR飯田線元善光寺駅徒歩20分


       <沿革>
           国人座光寺氏の居城跡とみられている。座光寺氏は、『寛政重修諸家譜』では源為朝の
          次男二郎為家が伊豆大島から信濃国伊那郡下条に移り、ついで座光寺村に住したことに
          はじまるとされる。ただし史料上の裏付けはなく、諏訪氏や源満快流片桐氏を出自とする
          説もある。応永七年(1400)の大塔合戦において、守護小笠原長秀方として参戦した武将
          の1人として、座光寺河内守の名が『大塔物語』に見えるのが、座光寺氏の初出とされる。
          早ければ、このときまでに北本城の原型が築かれていたものと推測される。
           16世紀前半ごろ、座光寺氏は神之峰城主知久氏に従属した。知久氏は諏訪氏の一族
          なので、座光寺氏も神氏とすれば同族ということになる。
           天文二十三年(1554)、武田晴信(信玄)が下伊那に侵出すると、知久頼元は神之峰城
          に籠って抗戦した。このとき、座光寺貞信も籠城方に加わっている。しかし、頼元と貞信は
          敗れて生け捕りにされた。頼元は甲斐河口湖の鵜の島に幽閉され、翌年に処刑されたが、
          貞信の処遇については詳らかでない。座光寺氏自体は武田家臣として存続し、永禄十年
          (1568)に信玄が生島足島神社に奉じた起請文には、座光寺三郎左衛門尉貞房が名を
          連ねている。
           貞信や貞房とのつながりは不明だが、天正三年(1575)の岩村城攻防戦に際し、籠城方
          の1人として座光寺為清がいた。助命を条件に開城したものの、為清は城主秋山虎繁夫妻
          らとともに織田信忠に捕えられ、逆さ磔の刑に処された。
           座光寺氏は為清の子為時が継いだとされるが、北本城をそのまま使用したのかどうかは
          定かでない。為時は天正壬午の乱で徳川家康に属し、徳川家の移封に従った後、関ヶ原
          の戦いを経て同郡内山吹陣屋1400石の交代寄合となっている。


       <手記>
           座光寺城北本城跡の中心部は、座光寺小学校となっています。正門前に説明板があり、
          その脇を流れる小川が西辺のラインということです。
           小学校北西角の向かいに、藪に埋もれた石碑があり、近づいてみると「北本城ノ跡土塁」
          と彫られています。そこからまた小川沿いに、やはり藪の中ですが土塁跡とみられる段差
          が伸びています。その奥の、座光寺保育園と耕雲寺の間は堀跡とされ、東端は堀底道と
          なっています。
           中心の遺構は小学校建設によって失われましたが、隣の峰の南本城が実戦を意識した
          縄張りであるのに対し、北本城は居住性を担保した選地・縄張りであったとされています。
          この点から、座光寺氏のもともとの居城は北本城であったと推定されていますが、確証が
          あるわけではないようです。

           
 座光寺小学校正門前の説明板。
西辺の小川。 
 「北本城ノ跡土塁」石碑。
土塁跡。 
 同上。
耕雲寺。 
 耕雲寺南東隅の堀底道のようす。
同上。 


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