明石城(あかし) | |
別称 : 喜春城、錦江城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小笠原忠真 | |
遺構 : 櫓、石垣、天守台、堀など | |
交通 : JR山陽本線/山陽電鉄明石駅徒歩0分 | |
<沿革> 元和三年(1617)、小笠原忠真(当時の名は忠政)は松本から10万石で明石に転封となり、 船上城に入城した。幕府は忠真に新城の築城を命じ、その責任者に忠真の舅で同年姫路城 に入封した本多忠政を充てた。忠政は明石周辺を実地調査し、城地の候補をいくつか挙げて 幕府に裁可を仰ぎ、明石川左岸の人丸山に決定した。ほかには塩屋町(神戸市垂水区塩屋 町周辺)と蟹坂(明石市和坂周辺)の2か所が候補に挙がっていたといわれる。幕府は、普請 奉行として都築為正、村上吉正、建部政長の3名を派遣した。 築城に際しては、三木城や船上城、高砂城などの建材が転用され、工事は急ピッチで進め られた。築城の開始時期については、元和三年〜五年と幅がありはっきりしないが、同五年 (1619)ごろまでには一応の完成をみていたとされる。城下の町割りについて、小笠原氏の 客分であった宮本武蔵正名が行ったともいわれるが、真偽のほどは不明である。 忠真は、寛永九年(1632)に小倉城へ転封となり、翌年に松本から戸田松平康直が7万石 で入封した。康直の子光重は同十六年(1639)に加納城へ移り、入れ替わりで大久保忠職 が加納から明石へ入った。その後、藤井松平家2代、本多政利と続き、天和二年(1682)に 越前松平直明が越前大野から6万石で入封するに至って、ようやく城主家が安定した。 藤井松平家2代松平信明のとき城内十景が選定され、漢の『塩鉄論』にちなんで「喜春城」 の雅称が付けられた。 直明以降、松平家は10代を数えて明治維新を迎えた。ちなみに、映画『十三人の刺客』に 登場する暴君松平斉韶は実在の第7代明石藩主である。ただし実際の暴君伝説は、養子で 8代目の斉宣(将軍家斉の二十六男)にまつわるものである。 <手記> 明石城は、明石川東岸の丘陵先端に位置しています。眼下を走る山陽道は、明石城下で 城と川、そして明石海峡に挟みこまれる格好となり、交通の要衝をなしています。また、海峡 を渡れば淡路島であり、山陰陽だけでなく、四国へもアクセスできる拠点としても意識されて いたものと考えられます。 明石新城の築城は幕府の命でしたが、それまで使用されていた船上城も、築城の名手と 謳われる高山右近の築いたものであり、恃むに足りない城というわけではなかったと思われ ます。にもかかわらず、わざわざ幕命で新城が築かれたのは、船上城が明石川西岸にある 平城であり、西側の丘陵上からの攻撃に耐えられないと判断されたことが大きいように思い ます(確証があるわけではなく、ただの推論ですが)。この推論が正しいとするならば、同じく 明石川西岸に位置する蟹坂は候補になりえず、また塩屋町も平地に乏しく近世城郭の選地 としては不適といえるため、人丸山は当初から最有力候補であったものと考えられます。 さて、JR明石駅のホームに立つと、目の前に坤櫓と巽櫓の眩しい白壁が見えます。現地 で聞いた話では、明石城の両櫓は福山城の伏見櫓に次いで2番目に駅から近い現存の櫓 だそうです。 明石城は、大きく丘上の主城部と山麓の居館部に分けられます。居館部は、三の丸内側 にさらに堀で囲まれた居屋敷曲輪がありましたが、現在は公園化により埋められています。 三の丸を囲う外堀はよく残っていますが、当時は木橋で渡していた大手口は土橋となって います。 峰続きの北および東には、千石堀と桜池、剛の池という3つの堀を兼ねた池がありました。 このうち、剛の池についてはもともとあった池のようです。また、千石堀は明石城の最大の 弱点である東側峰続きの出の門の北側に広がっています。他方、出の門南側は堀切状に なっていますが、かつては箱堀だったそうです。 本丸には坤櫓と巽櫓の2基が現存していますが、前者は船上城から、後者は伏見城から の移築と伝えられています。両櫓を繋ぐ城壁は後世の復元です。私が訪れた時は、坤櫓の 1階部分が公開されていました。この坤櫓は2層目の庇の東側のみ、千鳥破風と唐破風が 重なる形となっています。現地の方の話によれば、破風を重ねると、庇がかなり重くなって しまうため相当な技術が必要とのことで、明石っ子の自慢の1つのようです。 本丸には天守台もあり、5層の天守が計画されていたとの説もありますが、結局建てられ ることはありませんでした。本丸の四隅には坤・巽両櫓の他に2基、計4基の三重櫓があり、 その上に天守を重ねて建てる必要はなかったものと思われます。 明石城は、幕府主導で築かれていながらいわゆる天下普請ではない城です。江戸幕府の 成立以降、幕命で築かれたにもかかわらず、地元の大名のみで普請された城というのは、 意外と少なく貴重なのではないかと思います。姫路城主本多忠政が責任者であったという ことからも、明石城が姫路城を主としてセットで山陽道を押さえる戦略であったと考えるのが 妥当なように思われます。 |
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坤櫓を望む。 | |
巽櫓と明石海峡大橋。 | |
坤櫓近望。 | |
巽櫓を望む。 | |
千石堀。 | |
出の門跡。 | |
方の門跡。 | |
大の門跡。 | |
番の門跡。左手は巽櫓。 | |
天守台。 | |
先の門跡。高石垣は天守台。 | |
先の門下から坤櫓を見上げる。 |