小島城(こじま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 姉小路氏
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、虎口
 交通  : JR高山本線杉崎駅徒歩20分


       <沿革>
           姉小路三家の1つ小島家の居城である。国司大名姉小路氏は、建武の親政において
          姉小路家綱が飛騨国司に任じられたことにはじまる。まもなく、小島家のほか古川城主
          古川家と向小島城主向家の3家に分裂し、小島家が嫡流とされたが、古川・向両家の
          系譜は詳らかでない。
           応永十八年(1411)、古川家の姉小路尹綱は小島家に対して挙兵し、小島城を攻撃
          した(飛騨の乱)。小島家当主姉小路師言は京にあったが、小島城が陥落したか否か
          は定かでない。幕府は飛騨守護京極氏に尹綱追討を命じ、尹綱は敗れて自害した。
           戦国時代に入って三木氏が勢力を伸ばし、16世紀中ごろに古川家の名跡を継ぐと、
          小島時光は三木自綱(姉小路頼綱)の五男基頼を婿養子に迎えた。天正十年(1582)
          に本能寺の変が起こり天下の情勢が再び混迷すると、飛騨の覇権を賭けて江馬輝盛
          が小島城に夜襲を仕掛けた。時光はこれを撃退し、三木氏・牛丸氏・広瀬氏らの援軍
          を得て、八日町の戦いで輝盛を討ち取った。
           天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ攻め入った。時光・
          基頼父子は小島城に籠城したが、攻め落とされた。これ以降小島氏の足跡が絶えて
          いることから、時光らはこの戦いで討ち死にしたと考えられている。
           その後の小島城についても、史料上は不明である。ただし、現存する遺構からは、
          新たな飛騨国主となった金森氏による改修の可能性が推測されている。


       <手記>
           宮川と太江川の合流点に鋭く突き出た、地図上でも現地でもよく目立つ山城です。
          徒歩での登城路は、南東麓の沼町口と浄慶寺西側の杉崎口、そして北東麓の大江口
          の3か所があります。杉崎駅からのアクセスを考えると、沼町口から登って杉崎口から
          降りるのが、無駄のないルートかと思われます。車の場合は、太江川をさらに遡って、
          奥飛騨田中牧場から林道が主郭下まで通じています。ただし、駐車スペースも十分に
          あるのですが、そこまでの道が細くて長く、すれ違えるポイントも少ないため、小回りの
          利く車でなければおすすめはできません。
           小島城は、付け根側の主城域と、先端側にやや下った「古城」の大きく2つのエリアに
          分かれています。名前のとおり、古城は姉小路氏初期の城域で、後により上部に拡張
          されたものとみられていますが、それが小島氏・三木氏・金森氏のどの時代に行われた
          のかは定かでありません。
           沼町口と大江口からの登山道は林道に通じているので、車で登るのと訪城ルートは
          同じです。駐車スペースから歩いてすぐに主郭に出ます。主郭は東西に細長く、前後が
          それぞれ櫓台状に整えられています。とくに前方はやや面積があり、現地説明板では
          こちらのスペースを狭義の主郭としています。後方の櫓台から南東側に下りていくと、
          笹薮で少々分かりづらいものの、喰い違いになった升形状虎口跡が見られます。
           主郭前方を下りると副郭があり、その先端にはやはり升形虎口跡があります。そして、
          虎口を出て北側へまわると、小島城最大の見どころの1つである、石垣跡が現れます。
          この石垣は隅が算木積みになっていることから、金森氏時代の造作とみられています。
          主郭上段にも石垣の痕跡があり、かつては主城域に広く石垣が用いられていたと考え
          られます。
           虎口の下はかなりの急坂で、車の場合は古城を見学した後この坂を登って戻らなく
          ないので、結局それなりの山登りが必要です。古城は主城域に比べるとかなり簡素な
          つくりで、両者の間には目立った堀切などはありません。
           古城の主郭後方にはT字型の土塁があり、かなり印象に残ります。その背後は浅い
          堀と土橋の跡が見られますが、土塁外側との高低差はほとんどなく、後ろからの攻撃
          に対してはかなり弱いように感じます。土塁がT字になっている理由も皆目見当がつか
          ず、まったくもって謎な遺構です。古城の先端側は、小さな腰曲輪が連続した後、2条
          の堀切を以て最前部となります。
           総じてみると、石垣や虎口などの造作は、やはり金森氏によるものでしょう。小島城
          と古川城には石垣があり、向小島城や小鷹利城野口城などには見られないのは、
          小島・古川両城が増島城の詰城として整備されたか、先に両城が改修され、増島城が
          築かれる際に石材が転用されたということではないかと推測されます。

           
 小島城山を正面から。
 画面上で最も高い場所が主郭。
 その手前のツートンになっているピークが古城。
駐車スペース付近から主郭を見上げる。 
 主郭上段を望む。
 段差の部分に石垣の痕跡があります。
主郭上段から後方櫓台方向を俯瞰。 
 櫓台の上。
櫓台北側下の腰曲輪。 
 櫓台後方下の升形状虎口跡。
副郭から主郭を見上げる。 
 副郭先端の升形虎口跡。
副郭下の石垣。 
 同上。
古城の主郭。 
 T字型の土塁上。
T字型土塁後方の堀と土橋跡。 
 古城の腰曲輪の1つ。
古城先端の二重堀切。 


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