増島城(ますしま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 金森長近 | |
遺構 : 石垣、水濠 | |
交通 : JR高山本線飛騨古川駅徒歩5分 | |
<沿革> 天正十三年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ攻め入り、姉小路氏 (三木氏)を降伏させて新たな飛騨国主となった。長近は鍋山城を居城とし、翌十四年 (1586)に地方統治の拠点として増島城を築いた。増島城主には、長近の養子可重が 就き、古川城から移り住んだ。 慶長十三年(1608)に長近が没すると、可重が高山藩主となって高山城へ移った。 増島城には、可重の長男の重近(宗和)が入った。しかし、重近は同十九年(1614)の 大坂冬の陣で父と対立したため廃嫡され、増島城は元和元年(1615)の一国一城令に より廃城となった。この間の城主については詳らかでない。 廃城後も、「古川旅館」と呼び名を改め、金森氏の別邸として存続した。しかし、元禄 五年(1692)に金森家が出羽上山藩へ転封となり、飛騨国が天領とされるに及んで、 古川旅館も同八年(1695)に破却されたと伝わる。 <手記> JR飛騨古川駅のすぐ南東、県立特別支援学校が本丸で、市立古川小学校が二の丸 の跡とされています。とはいえ、遺構は御蔵稲荷神社となっている天守台と、その脇の 水濠だけとなっています。その天守台とて、道路に面した北東辺は明らかに積み直され ていて、当時のままなのは南東面のみとのことです。 飛騨古川といえば白壁土蔵の街並みで有名ですが、もともとは増島の城下町として、 瀬戸川沿いに開かれたのが始まりです。瀬戸川には鯉が泳いでいますが、冬場には 越冬のために増島城のこの濠に移されます。 往時の増島城は四周を広い水濠に囲まれていたということで、広島城などと同じく、 京の聚楽第を手本としているとみられています。とすると、聚楽第と増島城の築城年は 同じで、広島城に3年も先立って築かれた、当時最先端も先端の城郭だったことになり ます。事実とすればかなり興味深いのではないでしょうか。 |
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増島城天守台。 | |
往時の石積みが唯一残っているとされる天守台南東面。 | |
天守台の御蔵稲荷神社を学校側から。 | |
おまけ@:瀬戸川と飛騨古川の白壁土蔵群。 |
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おまけA:同上 | |
おまけB:越冬のため増島城水濠に移された瀬戸川の鯉。 |