淡路城(あわじ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 春日淡路か
 遺構  : 堀跡
 交通  : 松本電鉄波田駅徒歩15分


       <沿革>
           小笠原家臣・春日淡路守道次の居城とされる。春日氏の出自は詳らかでないが、道次の
          娘は飛騨の戦国大名・姉小路頼綱(三木自綱)の嫡男・秀綱の正室となっており、小笠原
          家中の地位は高かったものと推察される。秀綱は、天正十三年(1585)に豊臣秀吉が飛騨
          を攻略した際、松倉城を脱出して春日氏を頼ろうとしたが、落ち武者狩りに遭って殺された
          といわれる。頼綱の生年から、秀綱が妻を迎えたのは小笠原貞慶が松本平に復帰を果た
          した同十年(1582)以降のことと推測される。淡路城が築かれたのも同じころと思われるが、
          確証はない。
           姉小路氏が滅んでまもなく、貞慶は石川数正と共に徳川家を出奔し、豊臣家に仕えた。
          春日氏の動静は定かでないが、このときに淡路城も廃されたものと思われる。慶長十八年
          (1613)、貞慶の子・秀政は旧領の松本藩8万石へ復し、淡路も小笠原家臣として藩政に
          携わっているが、淡路城が再興されたか否かは不明である。
           元和三年(1617)、小笠原家は明石10万石へ加増・転封となった。同六年(1620)、淡路
          はその地で秀政の子・忠真に諫言して堪気を蒙り、手打ちにされた。豊前小倉城内に鎮座
          する八坂神社境内の春日社は、忠真の曽孫で小倉藩主の忠総が、淡路の霊を祭って創建
          したものと伝わる。


       <手記>
           松本市の遺跡地図によれば上に図示した範囲を城域とする崖端の城だったようで、その
          南東隅、歯科医院の西側の道路沿いに城址碑が建っています。碑と歯科医院の間の道を
          北上すると、河岸の突き当りから麓へ下りる古道が通じています。この道は自然谷の抉れ
          地形に当たってヘアピンに折れるのですが、この谷の上部は堀状地形となって続いている
          ようです。さらに、その先にあたる箇所に、民家に囲まれた堀跡とみられる地形が望めるの
          ですが、私有地を抜けるか谷からド藪を突き破らなければ近接できそうにありません。
           淡路守が築いたのであれば、上述の通り天正十年以降の築城ということになるでしょう。
          ただし、段丘面を西にスライドすると櫛木城があり、こちらは15世紀中期には存在していた
          とされています。櫛木城の意義は対岸の西牧氏と対峙し、飛騨へと通じる野麦街道を確保
          することにあったとみられ、淡路城についても同様とすれば、淡路守以前から存在していた
          可能性も考えられます。

           
 淡路城址碑。
北麓へ下りる古道。 
 古道脇の谷。
谷から続く空堀状地形。 
 民家敷地の奥にみえる空堀状地形。
長坂上砦跡から淡路城跡を望む(中央左手)。 


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