上山城(かみのやま) | |
別称 : 月岡城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 武衛義忠 | |
遺構 : 堀、土塁、庭園跡 | |
交通 : JR奥羽本線かみのやま温泉駅徒歩10分 | |
<沿革> 天文四年(1535)、伊達氏に所領を逐われていた上山義房の子の武衛義忠が居城の 高楯城を奪還した際、天神森と呼ばれていたこの地に新たな居城を築いて移ったのが はじまりとされる。上山氏は里見氏の流れを汲む天童氏の一門で、天童頼長の子満長 を初代とする。ただし頼長は最上家からの、その養父義宗は斯波家からの養子である。 義忠の孫の上山満兼(武衛義政)は、最上氏と縁戚関係を結ぶ一方、伊達氏や本家 の天童氏とも修好に努めるなど、全方位外交を展開した。しかし、最上義守と嫡男義光 との間で内乱が発生すると、満兼は伊達氏とともに前者に加担したため、勝者である 義光の警戒を招くこととなった。このとき、満兼は上山城を伊達勢に攻められたために 降伏・同調したともいわれるが、確証はない。 天正八年(1580)、上山氏の重臣かつ一族である里見義近・民部父子が義光に内応 し、民部の異母兄である里見内蔵助を殺害した。これに応じて義光が出兵し、民部らは さらに満兼をも攻め殺して上山城を奪った。民部はそのまま城主となり、最上家重臣に 迎えられた。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、上杉家臣の本荘繁長や上泉泰綱らが上山 に攻め入った。民部は寡兵を以て城外で奇襲をかけ、激戦の末に撃退した。 慶長八年(1603)、義光が嫡男義康を殺害すると、民部は義康の補佐役でありながら その廃嫡を讒言してきたため、危険を察して逐電した。このため、上山城には最上家臣 の坂光秀、次いで義光の五男光広が2万1千石で入った。光広は、所領にちなんで名を 上野山義直に改めている。 元和八年(1622)に最上家が改易となると、横須賀藩主の能見松平重忠が4万石で 上山藩を興した。重忠は上山を近世城下町とすべく整備をはじめたが、わずか4年後の 寛永三年(1626)に死去し、婿養子の重直は摂津三田藩へ減転封となった。 代わって、会津藩主蒲生忠郷の弟忠知が4万石で上山藩主に封じられたが、こちらも 翌寛永四年(1627)に忠郷が急逝したために、その跡を継いで伊予松山藩24万石に 減転封となった。その後は土岐家2代・金森家1代を経て、元禄十年(1697)に藤井松平 信通が3万石で入部するにおよび、ようやく藩主家が安定した。土岐氏の転封の際に、 本丸の建造物は破却され、以後は二の丸に居館を構えていた。松平家は10代を数え、 明治維新を迎えた。 <手記> 上山城は前川沿いの市街地に臨む舌状の丘にあり、ここに城が築かれたというのは むべなるかなという地勢です。他方で、縄張りは本丸の周囲を二の丸が囲む輪郭式と なっていて、舌状丘上の城としてはたいへん珍しく感じます。おそらく縄張りは最上氏の 時代に出来上がっていたものと思われ、同氏の城には輪郭式が多いことから(山形城・ 鶴岡城・新庄城など)、その流れを汲んでいるとすればとても興味深いように感じます。 上山城には模擬天守がありますが、その位置は本丸ではなく二の丸から本丸の堀に かかるあたりのようです。遺構は限定的で、月岡神社境内となっている本丸の周囲に、 堀や土塁の跡が散見されます。かつては、模擬天守背後の鐘楼が建っているあたりに 3層の天守が挙げられていたそうです。この天守は、古絵図を見る限り堀を渡る土橋と 直結していたようで、こちらも珍しい構造といえるでしょう。 本丸の北東には、切り通しの道路を挟んで月岡公園があります。この切り通しも本丸 の堀跡と思われますが、本丸堀は輪郭式の水濠だったため、おそらく道路建設の際に 切り通して水を抜いたのでしょう。とても立地条件の良い城郭といえるだけに、全体的に みて現状はかなり残念に感じました。 ちなみに、模擬天守は木曜日が定休なのでご注意ください。私はまさか定休日などと 思わず、入れませんでした^^; |
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二の丸の模擬天守。 | |
同上。 | |
本丸のようす。 右手中央の鐘楼のあたりに、 3層の天守があったそうです。 |
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月岡神社。 | |
土岐氏時代の庭園跡。 | |
本丸南東辺の土塁と堀跡。 | |
月岡公園との間の切通し道。堀跡か。 | |
月岡公園(二の丸)から模擬天守を望む。 | |
二の丸先端側のようす。 |