1 はじめに
2 観音寺城の特徴
2‐1 膨大な曲輪数
2‐2 本丸の位置
2‐3 曲輪配置と山頂の土塁線
2‐4 高度な石垣技術と稚拙な縄張り
3 従来の解釈
3‐1 近江国と六角氏の特殊性
3‐2 石垣技術と寺社勢力
3‐3 史的検証
4 『戦国の堅城』の通説批判
4‐1 戦闘正面
4‐2 土塁線
4‐3 全体の評価
5 反批判
5‐1 戦闘正面に関して
5‐2 土塁線の非合理性
5‐3 歴史的事実に耐えられない
6 私見
6‐1 徹底した政略の城
6‐2 なぜこのような城になったのか
6‐3 結語
1 はじめに
観音寺城は、近江の守護大名として知られる六角佐々木氏の居城です。標高約433mの繖山(きぬがさやま)に築かれ、 その支峰の1つに織田信長が安土城を築いた安土山があります。城好きか歴史好きでなければ、観音寺城と聞いてもピン とこないと思いますが、東海道新幹線がすぐ麓を走っているため、近江富士こと三上山と並んで、滋賀県では結構目立つ 方の山です。
観音寺城は、六角氏の居城として壮大な規模を誇っていただけでなく、他の中世城郭にはみられないさまざまな特徴を もっているため、その役割や成り立ちについて議論を呼んできました。これまでのところ、観音寺城は技術や規模に比べ て防御能力に乏しく、象徴的な役割をもった城という意見におおよそ収斂していました。
しかし近年、観音寺城の防衛力を肯定的に評価しようとする見解が現れ、再び議論の的となりました。そこで今回は、 従来の解釈と新しい解釈を紹介した上で、私なりの見解を示してみようと思います。
2 観音寺城の特徴
六角氏は、近江の守護大名にして戦国大名でもありました。十分に実力をもった大名ですから、城の規模の大きさ自 体は、特徴とまではいえません。むしろ、観音寺城の特異性は、大別すれば「縄張り」と「技術」にあるといえます。 以下、議論の対象となる特徴を列挙し、説明を加えていきます。 2-1 膨大な曲輪数 観音寺城の縄張り図やイラスト、模型などを見てまず異様に感じるのは、山肌にびっしりと設けられた曲輪の数です。 正確な曲輪数はいまだ把握されていませんが、数百から千余に上るといわれています。これらの曲輪の多くは、六角氏 に属する家臣団の屋敷地に充てられていたとされ、本丸以外の曲輪については、伝○○邸や伝○○丸といったふうに、 家臣の姓を冠した呼称が伝えられています。たとえるなら、山上に造営された集合団地といったところでしょうか。 2-2 本丸の位置 山城では、本丸や詰の丸は山頂に設けるのが普通です。山続きの峰の一部を用いる場合でも、その稜線のうちピーク になっているところが通常本丸となります。つまり、必ずしも最高所である必要はありませんが、本丸は城内でもっと も独立した場所に設けられた曲輪といえます。 ところが、観音寺城の本丸はこの原則から大きく逸脱したところに位置しています。繖山の山頂は上述の条件を満た しており、本丸を置くのに申し分はありません。しかし、なぜか観音寺城ではこの山頂には小規模な曲輪を1つ配した だけで、本丸は南西の尾根筋の中腹に設けられています。別に尾根のピークというわけでもなく、背後に堀切を穿って いるわけでもありません。イラストや模型を見れば、城について特段の知識をもっていない人でも、なぜここが本丸な のかと訝ることでしょう。 2-3 曲輪配置と山頂の土塁線
本丸以外の曲輪の配置についても、観音寺城には大きな特徴があります。それは、すべての曲輪が山の南側斜面に設 けられているということです。さらに、山城では山頂の本丸を中心に、尾根筋に沿って曲輪や堀が配置されるのが普通 ですが、観音寺城では山の稜線がほぼ1本の土塁でなぞられています。それゆえ、繖山の南側から見上げると巨大な城 の全容が目にできるのに対して、北側から見ると山上に土塁線として禿げた稜線があるだけで、建物が一切見えないと いう状態になります。
観音寺城の南側直下には東山道(後の中山道)が走っていたため、幹線通行者から見れば、城は浴びせかかるような 威圧感を与えたのだろうと思われます。それに対して、繰り返しになりますが、北側から見れば稜線が禿げただけの山 にしか見えませんから、そこに城があるのかどうかさえ分からない感じだったのではないかと推測されます。 2-4 高度な石垣技術と稚拙な縄張り 観音寺城の本丸周辺を訪れて驚かされるのは、累々と続く美しい石垣です。とくに、本丸から伝平井丸、伝池田丸に かけて、巨石を惜しみなく用いた石垣がほとんど途切れることなく連なり、観音寺城における高い石垣技術がうかがわ れます。安土城築城から遡ること20年以上前ということになり、当時はかなり斬新な城として見られたであろうと思わ れます。 このような高度な石垣技術と対照的に、観音寺城の縄張りは非常に単純であるといわざるを得ません。曲輪数が膨大 であるのに対し、観音寺城には堀が1つもありません。また、各曲輪の虎口(出入口)にも全く工夫がされていません。 数多くの曲輪をただ並べただけといっても過言ではなく、軍事施設であるならば当然あるべき縄張り上の配慮が明らか に欠けています。
3 従来の解釈
以上に挙げた特徴から、これまで観音寺城は高度な土木技術によって築かれているものの、軍事施設としての防御力 については疑問視されてきました。それゆえ、観音寺城は実際に戦闘を行うための城というより、六角氏の権威を象徴 する政治上の役割の強い城であったとみられてきました。 しかし、そうした権威の象徴としての面を重視した中世城郭は他にもありますが(岐阜城、多聞山城など)、観音寺 城の特異性はこれらの城とも一線を画します。高度な石垣技術と稚拙な縄張りの二面性や、集合住宅的な曲輪配置など がなぜ生まれたのか。観音寺城に対する関心は、政略の城であったということを所与として、その成立にいたる経緯に 向けられてきました。 3-1 近江国と六角氏の特殊性
六角氏が観音寺城を必要とした背景として、中世近江国の地域的特殊性が指摘されてきました。古来、近江は琵琶湖 周辺の水郷地帯を中心に湧水や流水を多く抱え、生産性の高い地域でした。自然、在地領主たちは高い自立性を有し、 時の権力に従順というわけではありませんでした。六角佐々木氏自身も、もともと近江国佐々木荘の開発領主であり、 近江守護であると同時に近江の在地領主たちの盟主的存在でもありました。 すなわち、六角氏の領国は六角氏自身の実力で上から強力に支配しているというよりも、在地領主たちの支持による 協調関係のもとで成り立っていたと考えられています。このような君臣関係自体は、戦国時代を通して一般的なもので したが、六角氏においては在地領主の連合体意識がとりわけ強かったものと考えられています。 そうした関係が明瞭に示されたのが、永禄六年(1563)の観音寺騒動と、これにともなって定められた六角氏式目で す。当時の当主六角義治は、祖父の代からの宿老であった後藤賢豊を手打ちにしてしまいました。殺害の理由は詳らか ではありませんが、表向きは無礼討ちとされました。この賢豊殺害に対して、六角氏家臣団は主君義治とその父義賢を 観音寺城から追い出すという挙に出ました。父子は、重臣蒲生定秀・賢秀父子の仲介により観音寺城へ戻ることができ ましたが、この復帰に際して、六角氏の権限を制限する六角氏式目の承認が条件とされました。 このように、在地領主の自立性の強い近江で戦国大名として勢力を拡大するためには、軍事力もさることながら領主 たちに対して盟主としての政治的権威を示す必要がありました。近江国の特殊性や六角氏の権力基盤の性質を鑑みて、 観音寺城が軍事的役割よりも政治的役割を重視して築かれたことの傍証とされてきました。 3-2 石垣技術と寺社勢力
観音寺城の特徴の1つである、城内のほぼすべての曲輪に施されている石垣は、近江の寺社勢力と大きく関係している ことが明らかとなっています。当時、近江国内には比叡山延暦寺をはじめ、多くの有力な寺院があり、それぞれが石垣や 瓦の技術をもった自前の普請集団を抱えていました。近江由来の石垣といえば、一般には「穴太衆」や「穴太積み」など として知られていますが、「穴太」とは比叡山の麓にあった地名であり、「穴太衆」とは近江国内に散在する石垣集団の 1つに過ぎなかったものと、今では考えられています。 観音寺城の石垣普請については、金剛輪寺の「西座」と呼ばれる集団が関わっていたことが、史料から明らかになって います。観音寺城の石垣の規模が他の中世城郭に見られる石塁のそれを大きく凌駕しているのは、寺社勢力の技術集団を 取り込んで築かれたものであるからと考えられています。すなわち、稚拙な縄張りに比して石垣技術が抜きんでて高度で あるのは、(一応)軍事施設ではない、寺社の技術を城郭建築に充当したためであると推測されます。
3-3 史的検証 それでは、当の六角氏は観音寺城にどのような役割を求めていたのでしょうか。観音寺城が築かれたのは南北朝時代 初期と考えられています。ただし、城を築いたというよりは、すでにあった観音正寺を利用した臨時の城砦といったも のであったと思われます。 1467年の応仁の乱の翌年から翌々年にかけて、観音寺城は3度の攻城戦を経験しました。最初の2回は、城主六角高頼 が京都に出陣中で不在であったこともあってか、落城の憂き目を見ています。3度目は、高頼自身が灰燼に帰していた 城を修築して、攻城方の六角政堯や京極持清らの軍を撃退しました。 高頼は、その後幕府と対立して将軍足利義尚の討伐を受けました(鈎の陣)。しかし、このとき高頼はあっさり城を 放棄して、甲賀山中に潜みゲリラ戦を展開しました。結局義尚は鈎で陣没し、高頼は再び観音寺城主に収まりました。 義尚の跡を継いだ義材も、再び六角氏征伐に向かいますが、高頼はまたも城を捨てて甲賀・伊勢に逃れました。そして ほとぼりが冷めると、また近江守護に復帰しました。1502年に、守護代も務めた佐々木氏一族の伊庭氏が反乱を起こし たときも、一時甲賀へ去り、和議を結んだ後に観音寺城へ戻っています。 現在目にしている姿の観音寺城は、高頼の子定頼によって改修されたものといわれています。定頼はとくに政治手腕 に秀でていて、京の足利将軍家と親密な関係を築き、北近江の戦国大名浅井氏を事実上従属下に置くなど、六角氏の最 盛期を築き上げました。定頼は、観音寺城下に楽市を布いて商業を振興し、城内の無数の曲輪に家臣団屋敷を建設して 観音寺城を近江の中心地とするべく腐心しました。 定頼の時代には、近江国内に攻め込まれるような事態はほとんどなかったようですが、定頼の子義賢のときに、上洛 を目指す織田信長との間で最後の観音寺城の攻防が起こりました。とはいっても主戦場となったのは観音寺城ではなく、 その支城の箕作城や和田山城でした。そもそも義賢・義治父子は、本城の観音寺城よりもこれらの支城に、多くの兵を 配置したとされています。六角氏の戦略は、織田軍を分散させて支城群で食い止め、同盟していた三好氏の援軍の到着 を待つつもりだったとか、どれか1つの支城の攻略に手間取っているところを、他の支城の兵で挟撃するつもりだった などと推測されています。いずれにせよ、六角氏に観音寺城で戦闘を行う意思はなかったものと思われます。果たせる かな、観音寺城の向かいの箕作城が落ちると、六角父子は城を捨てて甲賀へ走りました。その後も、六角父子は父祖に ならってゲリラ戦を展開しますが、再び観音寺城主に返り咲くことは、もはやありませんでした。 このように、六角氏は攻め込まれると一旦自ら城を去り、ゲリラ戦で相手の消耗と撤退を待ち、再び城へ戻るという 手法をとることがしばしばでした。ここから、六角氏自身も観音寺城を余り戦闘用の城としては見ていなかったと考え られます。
4、『戦国の堅城』の通説批判
前節で述べたように、歴史の事実からは、観音寺城は軍略より政略を第一とした城であったと考えられてきました。 しかし近年、観音寺城は戦闘にも十分耐え得る防御能力をもった城だったのではないかとする説が、にわかに浮上して きました。この新説についてまとめて紹介しているものとして、学習研究社歴史群像シリーズの『戦国の堅城』を取り 上げたいと思います。この『堅城』は、政治面や建築面よりもかなり戦術面に特化していますが、図やイラストや写真 を多用していて、とても分かりやすい本です。『堅城』の観音寺城の項の執筆者は樋口隆晴氏ですが、以下『堅城』で 論を進めていきたいと思います。 4-1 戦闘正面 『堅城』で最初に展開されているのは、観音寺城の戦闘正面に関する主張です。「戦闘正面」という用語自体、非常 に軍事学的で耳慣れないのですが、およそ「敵と対峙する方面」という意味のようで、「大手」とはニュアンスの違う もののようです。 観音寺城の「大手」は東山道や城下町に面した南側に開かれていましたが、『堅城』の主張では、その「戦闘正面」 は城の北側であったとしています。それによれば、東山道は観音寺城下で箕作城との谷間を通過し、ここに軍勢を展開 するのは困難としています。また、観音寺城の南面は北面より急斜面で、そこに千余といわれる曲輪群がびっしり取り 付いているため、南側からの攻撃は「地形的に無理」としています。そのため、敵は比較的傾斜の緩い北側の尾根筋を 攻め上ることになり、したがって観音寺城の戦闘正面は膨大な曲輪が連なる南側ではなく、曲輪の1つもない北側である と断定し、その後の議論の前提としています。 4-2 土塁線 『堅城』が指摘する、観音寺城の防衛における最大のポイントは、山頂の稜線に沿って累々と続く土塁線です。2-3 で述べたように、この土塁線は山城の常識からは外れたものでした。『堅城』では、従来脆弱性の証左とされてきた この土塁線を肯定的に評価することで、観音寺城を中世においては「強力な城郭」であったと解釈しています。曰く、 戦闘正面と考えられる北側からの侵攻に対して、この土塁線は有効な火砲線となったとするものです。さらに、観音寺 城の戦闘正面が北側であったからこそ、わざと山頂にも北側斜面にも曲輪を置かず、その防御を稜線の土塁線に託した のだと主張しています。 また、このような一線防御には、近江の性格上在地領主の兵の寄せ集めにならざるを得ない六角氏の軍隊でも、土塁 線1本に貼り付けて防御させれば、訓練や意思疎通が不十分でも効率的に城を守ることができるいう利点もあるとして います。
4-3 全体の評価 戦闘正面の発想と土塁線への注目によって、『堅城』では、観音寺城は実際には「強力な城郭」であったと結論付け ています。ただし、『堅城』においても、堀の不使用や単純な虎口など築城技術上の未熟さについては、これを否定す るものではありません。最終的には、当時の技術や軍隊レベルにおいて最良の縄張りに仕上げられた城といった評価が 与えられているもののように思われます。
5 反批判
『堅城』で取り上げられた新説(以下「堅城説」)は、ほぼ無批判であった従来の通説に挑んだという点では、非常 に画期的なものといえます。しかし、私はこの堅城説には懐疑的です。その理由について、『堅城』の通説批判に対す る反批判という形で述べたいと思います。 5-1 戦闘正面に関して まず、堅城説の大前提である戦闘正面の設定に大きな問題があると思われます。堅城説では、敵が北から攻めてくる ことを所与としています。しかし、東山道が走り大手が開かれている南から攻められることを考慮しない城など存在す るでしょうか。逆に、戦闘正面が北側であるということをかなり高度に立証できないかぎり、土塁線の実効性を訴える ことはできません。『堅城』では、戦闘正面についてかなりさらっとだけ書いて流していますが、実はこの「戦闘正面 =北側」という前提こそが、堅城説を左右するアキレス腱であるといえます。 たしかに、南側より北側の方が斜面が緩く、登るエネルギーだけを考えるなら、こちらの方が登りやすいといえるで しょう。しかし、繖山は上から見るとロブスターのような形をしていて、北に向かう尾根には、ロブスターのしっぽの ように3キロ以上に亘って道なき森が続いています。城攻めを行えるほどの軍勢をわざわざそのような尾根に迂回させ、 藪を延々かきわけさせてまで北側から攻め入る必要性があるかといえば、疑問視せざるを得ません。 この他に、北側から攻め入るルートとして、北東の五個荘川並集落から登るものと北西の現在の安土城方面から桑実 寺を経由して登るものがあります。川並ルートは城の東端、桑実寺ルートは城の西の本丸、いわばロブスターの両手の 部分へ通じています。すなわちこれら2ルートは、山頂の土塁線の砲火をほとんど受けることなく城中へ達しています。 土塁線が向く北側を戦闘正面とすることは、やはりかなり無理があるように思われます。実際に訪れてみても、土塁線 の北側から攻めようという意欲は、土塁線がなかったとしても、まず湧かないように感じます。 5-2 土塁線の非合理性 つぎに、土塁線の有効性についても疑義を呈したいを思います。そもそも、戦闘における城の役割とは、少ない兵で 多数の敵兵を撃退することにあります。そのためには、戦闘箇所で実際に戦っている兵の数が、守城兵>攻城兵となる ようにしなければなりません。すなわち、敵をなるべく1点に集め、それを覆うように城兵が攻撃できるような工夫が 求められてきました。升形虎口や馬出、堀障子などは、すべて戦闘箇所を集約する目的のために発明されたものです。 それに対して、戦闘に参加する敵兵を全く減らさない山頂の土塁線の一線防御は、軍事面における城の目的に背くもの といえます。この点は『堅城』も認めながら、「戦力は相対的なもの」としてお茶を濁しています。 にもかかわらず堅城説がこの土塁線を高く評価するのは、4-2で紹介したように、線での防御が指揮系統の弱い寄せ 集めの兵で守るのに効率が良いからとされています。しかし、横一直線の土塁線ならば兵を貼り付けさせておくだけで 大丈夫というのは、少々都合よく考えすぎているように思います。 たとえば、スケールが段違いになってしまいますが、万里の長城やイギリスのハドリアヌスの長城などを、同じ一線 防御の例として考えてみます。これらの国境の長城に求められていたのは、どこからやってくるか分からない敵を一時 的にしのぐことです。長城とは、線で敵を撃退するというより、他方から援軍が到着するまでの時間稼ぎをする施設と いえます。つまり、一線防御の場合、攻城側としてはどこか1点を破ればよいのに対し、守城側はどこの1点も破られて はいけないわけです。自然、同じ線上でも戦闘の激しい箇所と穏やかな箇所が生まれるはずで、線で守るから持ち場に ずっと貼り付いていれば良いというものではありません。結局、戦線の厚薄を見極め、兵卒を指揮しなければならない ことには、点防御の城も線防御の城も変わりはありません。土塁線なら訓練度や指揮系統が弱くても防御力を発揮でき るとする堅城説は、根拠薄弱といわざるを得ないでしょう。 観音寺城が決して土塁線での防御を志向していたわけではないことは、戦闘正面を真北とする前提を所与とさえしな ければ、実際の縄張りからもうかがうことができます。すなわち、北側からの現実的な攻城ルートである川並ルートと 桑実寺ルートの行き着く先は、土塁線ではなくれっきとした曲輪なのです。川並ルートは伝淡路丸に、桑実寺ルートは 本丸にそれぞれ至ります。両曲輪とも石垣で固められ、単純ながらも虎口をもった、それこそ観音寺城では比較的防御 力の高い曲輪です。点で守るか線で守るかといえば、やはり観音寺城も、技術はお粗末ながら、点での防御を想定して いた城とみるのが妥当だろうと思われます。 5-3 歴史的事実に耐えられない もし観音寺城が一度も戦火に晒されたことがなければ、こうした机上の議論も意味や夢をもつものかもしれません。 しかし、六角定頼の改修後、観音寺城は織田信長との間で実戦を経験しました。そして、たった1度とはいえ史的検証 を可能とするこの事例の前では、今のところ堅城説は意味のない空論から脱却することはできないといえます。 3-3で述べたように、信長との戦いに際して、六角父子は観音寺城ではなくその周囲の支城群を守りの頼みとしてい ました。そして観音寺城の南東向かいの箕作城が落ちると、観音寺城北東の和田山城の城兵は逃散してしまいました。 これを見た六角父子は、敗残兵をまとめて観音寺城の防御を固めるでもなく、即座に城を捨てて甲賀へ落ちました。 もし『堅城』がいうように、南からの攻撃が「地形的に無理」であるなら、また北からの攻撃が堅い土塁線に阻まれ て困難であるなら、観音寺城で一戦も交えずに落去するのは理屈に合いません。六角氏の戦略に従えば、籠城兵だけで 織田軍を撃退する必要はなく、あくまで三好氏の援軍が到着するまで持ちこたえればよかったのですから、観音寺城で 籠城戦を展開する余地は十分にあったはずです。にもかかわらず、箕作城の落城によって、あっさりと観音寺城はじめ 他の城が一斉に戦意を喪失したのは、織田軍の実力に対する驚愕もあったのでしょうが、それ以上に観音寺城のみでは 戦闘に耐えられないという認識が広く共有されていたためであると考えるのが自然でしょう。
6、私見
以上の反批判から、堅城説は「観音寺城は実は堅城であった」という結論ありきで、前提からして強引に導き出され た説ではないか、というのが私の見解です。しかし、観音寺城で本当に戦闘が行われていたらどうなっていたかという ことは、実際のところ私にとってほとんど関心の外にあります。なぜなら、少なくとも六角定頼以降、観音寺城は戦闘 用の城とは見なされていなかったからです。 城にはすべて役割があります。当の城主たちが、観音寺城について「ここで戦うに能わず」と判断していた以上は、 軍事的な能力をいくら論じても、城の役割を解き明かす上では何ら役には立ちません。 そこで最後に、政治的な役割という観点から再び観音寺城の謎を俯瞰し、その成り立ちについて補論を付け加える形 で私見を提起して、本稿を閉じたいと思います。 6-1 徹底した政略の城 信長の築いた安土城と、観音寺城は多くの共通点をもつといわれています。安土城内への重臣の集住や城下での楽市 楽座。これらはもとはといえば、六角定頼が観音寺城で実施したものです。また信長は、近江の石工集団を総動員して 安土城の石垣を築いたとされていますが、城の石垣建築に寺社勢力が抱える石工集団を動員したのも、定頼がはしりと みられています。このように、おそらく観音寺城を手本としたと思われる安土城について、これを戦闘用の城であった とみる人はまずいないでしょう。 天下人が威信を懸けて築いた居城に、その特徴の多くがトレースされたということは、観音寺城がすぐれて政治的な 城であったことを示す1つの証左となるでしょう。結局、六角氏が観音寺城に求めたのは、政治95%:軍事5%ぐらいの 徹底した政治性だったのだと思います。このように、政治以外の要素を完全に等閑視すれば、2で挙げた観音寺城の謎 のいくつかには説明を与えることができます。 たとえば、膨大な曲輪数については、曲輪ごとに家臣の屋敷を構えることで「曲輪数=家臣の掌握度」を示すことに つながると考えられます。すなわち、近江のような在地領主の集合体とならざるを得ない土地において、膨大な家臣団 屋敷と曲輪を山上に擁する城を見せつけることが、権威の確立に直結していたと推測できます。 また、高い石垣技術に比して縄張りが稚拙であるのは、石垣が政略上必要であったのに対し、縄張り上の技巧が政略 上必要なかったからという徹底した二分論に還元すれば、かなり一貫性をもって説明できます。実際に六角氏が複雑な 虎口や堀といった技術をもっていたのか否かについては私には分かりませんが、同じ近江に勢力をもつ浅井氏の小谷城 や京極氏の上平寺城に見られる技術を六角氏が全くもち得なかったとは考えにくいと思われます。だとすれば、六角氏 はあえてこれらの防御を観音寺城に施さなかったことになります。そこで、1つの想像としては、必要がなかったから 作らなかったのであり、もしかしたら、そんなものを作れば家臣団の屋敷地として貴重な山上の平場が削られてしまう くらいにさえ考えていたのかもしれません。 石垣については、私は通説と異なる考えをもっています。通説では、石垣は鉄砲の登場による砲撃戦に備えるために 築かれたものといわれています。しかし、弾が貫通すれば城兵の命に関わる塀などと異なり、足元の塁にはいくら弾が めり込んでも、何の不都合もありません。鉄砲に対する防御力は、土塁であるか石垣であるかによっては左右されない ものと思われます。対して、政治的観点に特化すれば、寺社お抱えの石工集団による石垣構築は、城の壮麗さを格段に 上げて権威の確立に寄与するとともに、寺社勢力を掌握しているというアピールにもつながる一石二鳥の効果をもって いたと考えられます。 そして問題の土塁線についてですが、これは軍事的利点はないと批判しておきながら、政治的にもなかなか長所が見 出せない代物です。強いて苦しい解釈を挙げるなら、狼煙や旗などの信号を送る際、背景が青空であるよりも何かを背 にした方が見えやすいため、山頂の稜線にあえて何も置かないことで、その下の建物をより麓から見えやすくする効果 を狙ったものと考えることもできるかと思います。その方が、下から見上げたときに、より浴びせかかるような印象を 与えるができたでしょう。ただ、それだけの効果のためにわざわざ土塁線を構築したのかと問われると、難しいように も思われます。土塁線の効用については、いまだ謎の中といわざるを得ないでしょう。 以上にみたように、観音寺城は、実は軍事的能力にも優れていたのだと血眼になるよりも、政治的能力に特化した城 であったと割り切った方が、この城がもつ多くの特殊性について論理的なアプローチができるものと思います。 6-2 なぜこのような城になったのか ここでもう1つ、『堅城』でも触れられていない謎が残っています。本丸の位置についてです。2-2で挙げたように、 観音寺城の本丸は山頂にないどころか、西南の尾根の付け根といういたって不自然な場所にあります。また、これだけ 多数の曲輪がありながら、桑実寺ルートは他の曲輪を通過することなく本丸に直結しているという、守る気があるのか 疑いたくなるような縄張りをしています。 この点について、全くの憶測なのですが、当初の観音寺城は現在の本丸を最高所として繖山西南の尾根のみを利用し た城だったのではないでしょうか。築城当初の繖山は大部分が観音正寺の寺域であり、六角氏が力をつけていくにつれ て、次第に寺域が城内に取り込まれていったのではないでしょうか。本丸以下、西南尾根に並ぶ伝平井丸や伝池田丸は、 観音寺城中では最も曲輪らしい曲輪、あるいは城らしい曲輪といえます。当初の観音寺城域がこれら3曲輪程度のもの であったと考えれば、搦手に相当する桑実寺ルートが本丸裏に直結していることも頷けます。 さらに想像を膨らませて、繖山南面にびっしりと貼り付く曲輪群は、もともと観音正寺の僧房か何かの施設が建ち並 んでいたところではないかとも考えられます。つまり、最初は寺の一角に寄寓するような形であった城が、定頼の時代 ごろに、寺を呑みこんで全山が城塞化していったと考えれば、一応物語としては一貫します。ただ、これは辻褄の合う 話の1つとして考えているというだけで、今のところ何の確証もありません。 6-3 結語 以上、近年現れた堅城説を奇貨として、実際に訪れた際の印象と考察を踏まえ、観音寺城をめぐる議論をまとめ私見 を述べさせていただきました。観音寺城の位置づけをめぐる議論は決着をみないばかりか、その謎と魅力は一向に尽き ません。長々と論を展開しながら、多くの推測に彩られた私見の提示に留まったまま筆を置くのは心苦しいのですが、 この問題に明確な結論を出すには、まだ時間と材料が足りないというのが実情です。最後まで冗長な文章にお付き合い いただいた方には消化不良かと思われますが、城の見方は1つではないという点についてはある程度明示できたのでは ないかと考えております。