難波田城(なんばた)
 別称  : 南畑城、難波田氏館
 分類  : 平城
 築城者: 難波田氏
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 東武東上線志木駅よりバス
       「難波田城公園南口」バス停下車


       <沿革>
           在地領主難波田氏によって築かれたとされる。難波田氏は武蔵七党の1つ村山党の流れを
          汲み、金子家範の子小太郎高範を祖とする。高範は、承久三年(1221)の承久の乱で幕府方
          として参戦し、宇治川の戦いで討ち死にした。高範自身は史料上難波田姓を称してはおらず、
          高範の奮戦の功によって子孫が難波田郷を与えられたものと考えられている。
           初期の難波田氏は現在の字山形にを構えていたともいわれ、難波田城がいつごろ築かれ
          たのかは明らかでない。また、高範以降の難波田氏の系譜についても詳らかではない。観応
          元/正平五年(1350)十二月十九日、観応の擾乱にともなう羽根倉合戦が難波田南東の荒川
          沿いで勃発し、足利直義方の難波田九郎三郎が尊氏側の高麗経澄に敗れて戦死している。
           16世紀前半の当主難波田弾正憲重(善銀)は、扇谷上杉氏の重臣として一躍台頭した人物
          として知られる。憲重は深大寺城松山城など対北条氏の重要拠点を任されたが、天文六年
          (1537)に主君上杉朝定が居城河越城を落とされると(このとき憲重の息子3人と甥が戦死した
          とされる)、朝定を松山城に迎えて抵抗を続けた。
           天文十五年(1546)、いわゆる河越夜戦で河越城を包囲していた反北条連合軍は北条氏康
          の奇襲を受けて壊滅し、憲重は東明寺の古井戸に落ちて死亡したと伝えられる。朝定も同じく
          戦死し、扇谷上杉氏は一夜にして滅亡し、難波田氏も没落した。松山城を継承した憲重の甥
          にあたる上田朝直(朝直の母が憲重の姉妹)や、憲重の娘婿で岩付城主となった太田資正ら
          はほどなく北条氏に降り、難波田城も同氏の手に落ちたものとみられる。
           永禄二年(1559)に編纂された『小田原衆所領役帳』によれば、朝直の一族とみられる上田
          左近(周防守とも)なる人物が難波田村に120貫文を領していることから、この時点で左近が
          難波田城主であったと推定されている。他方で、憲重の娘と大森式部の子因幡守憲次が後に
          難波田氏を継承している。折しも、同三年(1560)の長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵に際して
          朝直は景虎に一時的に寝返ったことから、越相同盟が締結される同十二年(1569)までの間
          松山城主の地位を逐われている。左近も朝直と動向をとも共にしていた蓋然性は高いといえ、
          憲次が難波田城主として復権した可能性も考えられる。
           憲次は天正十八年(1590)の小田原の役に際して松山城に詰めていたが、前田利家・上杉
          景勝らに攻められて降伏した。難波田城で戦いがあったかは不明だが、役後に廃城となった
          ものとみられている。


       <手記>
           難波田城址は、現在難波田城公園として整備され、地図上でもはっきりと分かります。西の
          新河岸川と東の荒川に挟まれた平野の平城で、現在も東方を中心に水田が広がっています。
          当時も、泥田や低湿地に囲まれたわずかな沖積地を利用した城だったのでしょう。
           整備されていると書きましたが、実際に公園化されているのは南側半分弱ほどです。とくに、
          公園の北端には城址碑と冠木門がありますが、この門より北が本丸で、現在は宅地となって
          います。史跡復元がなされているのは、本丸南の馬出曲輪と本丸を囲む帯曲輪(古図によれ
          ば二の丸ではないようです)の南半分および、その南の大手馬出曲輪です。大手曲輪の西に
          は浮島状の出郭があったとされ、こことその西側(古図では水濠)に資料館や移築古民家が
          建っています。どちらかというと古民家の方がメインではないかというくらい手入れがなされて
          おり、城跡部分も緑と花と水の公園といった感じで、史跡公園としては、最良の部類とはいえ
          ないように思いました。
           資料館の裏手には「水塚」と呼ばれる小規模な築山があります。富士見市の低地部特有の
          洪水に備えた盛土で、上に土蔵などを建てたのだそうです。用途から察するに江戸時代以降
          につくられたもののようにも思えますが、ちょうど先の出郭の北西隅付近にあたることから、
          もともとは城の遺構であった可能性も考えられます。
           住宅地となっている本丸跡を歩いてみると、住宅にはおよそ不要な高い土盛りが1ヵ所だけ
          見受けられます。本丸土塁の痕跡のようにも見えますが、公園内にそのような高土塁は復元
          されておらず、旧図や資料館のジオラマにも反映されていないため、ちょっと疑わしいようです。
           城址公園から道路1本挟んだ南西に、水田に浮かぶように土塁状の土盛りで囲まれた旧家
          があります。これも、前述の水塚である可能性が高そうですが、雰囲気的には城の曲輪跡を
          利用しているように見えてなりません。ただ、こちらは主城域からやや離れているので、出郭
          と断ずるのは早計と思われます。
           さて、難波田城の南西には、難波田氏の初期の居館があったとされています。居城の移動
          があったとして、その時期は不明ですが、そもそも現在の難波田城を難波田氏の居城とする
          確証もありません。今に残る難波田城の遺構は、折れや喰い違いをもつ土塁が如実に示して
          いるように、明らかに後北条氏の手によるものといえます。公園整備に先立って発掘調査が
          行われたようですが、現在目にできる遺構以前の難波田氏累代の居城跡がその下から発見
          されたという事実はないようです。
           したがって、あくまで可能性に過ぎませんが、現在の難波田城は後北条氏によって「新築」
          されたもので、憲重までの居城は南西の字山形にあったものではないかとも考えられます。
          後北条氏が河越城を抜いた際、すぐにその北の松山城攻略へと乗り出しています。河越より
          も南に位置する難波田にそれなりの城が存在したとすれば、憲重との間で記録に残る程度
          の合戦があってもおかしくはないように思われます。松山の記述はあっても難波田の記述が
          みられないことから、当時難波田には鎌倉期以来の在地領主の館しかなかったと考えた方が
          自然なように思えるのです。ただし、だからといって憲重の居館が現在の難波田城の位置に
          なかったといえるものではありませんが。

           
 本丸模擬冠木門と城址碑を望む。
 
本丸南の馬出曲輪を望む。 
 
 馬出曲輪に掛かる復元木橋。
 奥(本丸側)に行くにつれて細くなっています。
 攻められにくくする工夫と考えられています。
大手の模擬門。 
 喰い違い虎口。
折れのついた土塁。 
 資料館裏の水塚(みつか)。
公園南西の土塁に囲まれた旧家。 
出郭のようにも見えますが…近世以降の水塚か。 


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