小倉城(おぐら)
 別称  : 玉川城
 分類  : 山城
 築城者: 上田氏ないし遠山氏
 遺構  : 石積み、曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  :東武東上線武蔵嵐山駅よりバス
      「田黒」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           『武蔵志』によれば、扇谷上杉氏重臣で比企郡に勢力をもった上田氏によって築かれた
          とされる。『新編武蔵国風土記稿』には、遠山右衛門大夫光景の居城とある。小倉城北西
          の遠山寺の開基は光景と伝わり、小倉城下の大福寺には光景夫人の位牌が現存する。
          『記稿』によれば、光景は後北条氏重臣遠山綱景の弟直親の子とされる。ただし、史料上
          は綱景の弟に直親という人物はみられない。したがって、光景の実在はほぼ間違いない
          と思われるが、遠山氏の系譜上どこに位置するかについては、留保が必要と思われる。
           光景は天正十五年(1587)に没したとされるが(『記稿』)、その後の小倉城および遠山
          氏については詳らかでない。


       <手記>
           小倉城は、槻川の屈曲部に細長く突き出た峰の中腹のピークを中心に築かれた城で、
          四方を山に囲まれた渓谷部に位置しています。比企郡内の松山城菅谷館杉山城
          ともに、「比企城館跡群」として国の史跡に指定されています。
           登城路はいくつかあるようですが、おすすめは東麓の大福寺脇からのルートです。境内
          下には駐車場も完備されているのですが、そこへ至る道がとても狭いので、大きめの車
          で訪れる方は注意が必要です。登城路および城内は、史跡に指定されているだけあって、
          見学しやすくしっかり整備されています。大福寺境内は、周囲を土壇に囲まれた館地形
          を成しており、山麓居館址と目されています。
           小倉城はかなり大きくかつ技巧的な城で、現在でも大部分の曲輪を歩いて見ることが
          できます。構造の細かい説明は他の資料にお任せするとして、ここでは全体的な特徴を
          みていきたいと思います。
           何といっても一番の特徴は、そこかしこに見られる石積みです。大量の緑泥石片岩の
          平石を積み上げたもので、当時は城内のかなりの部分を覆っていたものと推測されます。
          小倉城の西に位置する青山城の麓には、同じ緑泥石片岩地質の板碑用石材産出現場
          と考えられている板碑製作遺跡があります。おそらく周辺には板碑の職工集団があり、
          石材の入手が容易であったものと察せられます。
           大手は主郭南方の「井戸ノ沢」にあったものと思われ、その中途には大手口の根小屋
          ないし番所跡と思われる削平地群がみられます。井戸ノ沢を下りた付近を小字「江戸田」
          といい、現地の説明では井戸の転訛とされています。ただ、個人的にはもっとストレート
          に、遠山氏が城代を務めた江戸城に由来するものとも考えています。
           小倉城の論点は、その築城主と「なぜこの城がこれほど取り立てられたのか」の2つに
          あります。虎口の工夫や先述の石垣など、その技術量や土木量からは地域の拠点城と
          しての規模を感じ取れます。ですが、城下一帯は今も静かな山間の集落で、失礼ながら
          あまり発展性の望める土地とはいえません。西や東に出れば小川町や嵐山町の市街地
          があり、遠山氏ほどの重臣であればそのどちらかに居城を構える方が自然といえます。
          また、小倉城は尾根筋の中腹に位置し、その先端には三方を川に囲まれたより要害性
          の高いポイントが手つかずで残っています。すなわち、この先端部を足がかりに攻め上ら
          れるルートは、小倉城にとって致命的な弱点といえます。縄張りや遺構から、後北条氏に
          よって大きく改修されていることはほぼ間違いないと思われますが、なぜこの城が同氏に
          それほど重要視されたのか、今もって謎といえます。
           他方で、築城主を上田氏とした場合、これらの疑問はすっきり説明がつきます。小倉城
          は、西の菅谷館と東の青山城の双方を直接視界に収めることのできるほぼ唯一の地点
          であり、両者を結ぶ連絡ポイントとしてのみ、その有用性を認めることができます。そして
          青山城も、仙元山に隠れているという変わった選地にありますが、これもさらにその西に
          ある上田氏重臣山田氏の腰越城と、小倉城を直線で結んだ中間に位置しています。した
          がって、もともとは比企郡を勢力圏とする上田氏によって、連絡の中継点として小規模な
          城砦が営まれたことに端を発するのではないかと推測されるのです。


           
 大福寺越しに小倉城址を望む。
主郭上段のようす。 
 
 主郭上段から下段を俯瞰。
上段脇の虎口。 
 主郭南辺の虎口。
主郭北辺の虎口。 
 主郭北側尾根筋の喰い違い虎口。
同虎口を上から。 
 主郭南東支尾根の堀切。
同南東支尾根の曲輪。 
 同支尾根の腰曲輪。
同支尾根の石積み。 
 同上。
主郭南西に位置する副郭。 
 副郭下段帯曲輪。
副郭西辺の空堀。 
 同空堀から続く竪堀。
副郭下の喰い違い虎口。 
 同虎口に臨む張り出し部と竪堀。
井戸ノ沢ルートの削平地。 
大手口か。 
 同削平地脇の虎口。


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