朝日山城(あさひやま) | |
別称 : 岡部城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 岡部氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR東海道線藤枝駅からバスに乗り、 「藤枝市岡部支所前」下車徒歩25分 |
|
<沿革> 今川家重臣岡部氏の詰城とされる。岡部氏は工藤氏分流入江氏の庶流とされ、工藤氏の 祖である藤原為憲の曽孫の維清が駿河国有渡郡入江に住して入江氏を名乗り、その孫の 泰綱が志太郡岡部郷の地頭となって岡部氏を称したと伝わる。朝日山城がいつごろ築かれ たのかは不明であるが、南北朝時代初期に今川氏が北朝の駿河守護となって葉梨地域に 入って以降と推察される。 天文五年(1536)の花倉の乱に際し、岡部親綱は栴岳承芳(今川義元)を支持し、義元の 異母兄である玄広恵探方の方ノ上城と葉梨城を攻め落とした。岡部領は両城の間に位置 しているが、朝日山城で戦闘があったかは定かでない。 廃城時期についても不明である。親綱の子とされる元信(真幸)は、永禄三年(1560)の 桶狭間の戦いに際し、鳴海城を死守して主君義元の首と引き換えに城を開いたことで知ら れる。同十一年(1568)の武田信玄の駿河侵攻では、今川氏真とともに駿河を逐われたが、 後に武田氏に降伏している。早ければこのときに、少なくとも山城部分は廃された可能性が 考えられるが、確証はない。 <手記> 新東名高速藤枝岡部ICと国道1号線を結ぶバイパス支線の側道沿いに、そこそこの広さ のある訪城者用の駐車場があります。道もしっかり上まで付いているのですが、一つだけ 注意点があり、途中になん箇所か「展望台」と書かれている分岐点があるのですが、そちら に行ってはいけません。富士山が見えるということなので行っても構わないのですが、城跡 からは離れてしまうのでただの寄り道になります。 登りはじめてまもなく、竪堀の最下部とされる場所に出ます。この竪堀は、全長110mとも いわれる巨大なものですが、基本的には自然の谷を利用しており、下の方については崩落 によってできたものとも思われます。また、竪堀の上は鞍部となっていますが、竪堀の規模 とは裏腹に堀切の痕跡が見られないのも気になります。 現地説明板では、一曲輪・二曲輪・三曲輪と多くの曲輪で形成されているように描かれて いますが、私の見たところ大きな曲輪は山頂の主郭だけで、そこから南東に腰曲輪が数段 続いているといった印象です。一番端の腰曲輪に、朝日稲荷神社が鎮座しています。主郭 は土塁で囲まれ、その周囲に帯曲輪が取り巻いているのも印象的です。 南西や北西の尾根にも、曲輪や堀がいくつか見られるようです。ただ、現況の朝日山は 私有地が入り組んでいるのか、どこまで入っていいのかちょっとよく分からず、それ以上の 踏査は断念しました。 全体的に、大竪堀を除けばそこまで目を見張るような造作はみられません。やはり、信玄 の駿河侵攻によって廃城になったとみるのが、最も自然なように感じます。 ちなみに、江戸時代に岸和田藩主となった岡部宣勝の祖父正綱は、元信の兄といわれて いましたが、近年では正綱とその父久綱は、親綱とは別系統とする説が有力のようです。 とするなら、朝日山城についても正綱の系統の居城であった可能性もあると思われますが、 その点についてはまだ論点には上がっていないようです。 |
|
岡部氏館跡付近から朝日山城跡を望む。 | |
駐車場脇の説明板。 | |
大竪堀最下部。 | |
中腹から大竪堀を望む。 | |
朝日稲荷神社。 | |
腰曲輪から主郭を見上げる。 | |
主郭のようす。 左右に土塁が見えます。 |
|
主郭サイドの帯曲輪。 | |
同上。 |