大堀山館(おおほりやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR川越線川越駅または東武東上線若葉駅よりバス 「観音堂」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』の下広谷村の項に「古跡三ケ所」とある内の1つと推定されている。 『日本城郭大系』では、応安元年(1368)の武蔵平一揆の乱の前後に築かれたものと推測して いるが、他の史料にはみられず確証はない。 <手記> 圏央道のすぐ脇にある大堀山館は、埼玉県内の平城としては指折りの遺構を残す城跡として 知られています。ですがその歴史については、史料上はまったくの不明です。 城跡は鬱蒼とした森となっていて、主郭の北東隅に小さな神明社の祠が祀られているほか、 人の手はほとんど入っていません。大手は南側に開いていたようで、虎口脇と思われる箇所と 北側の側道脇に説明板が1つずつ設置されています。 三重の空堀と土塁に囲まれたようすがよく残っているものの、藪化が進行していて全体像を しっかり把握するのは少々困難になっています。ただ、私が歩いて見てまわった限り、『大系』 所収の図とも現地説明板のそれとも、縄張りがいささか違っているような気がしてなりません。 とりわけ気になったのは、主郭を東西に二分する大きな仕切り土塁について記載がないこと です。かなりの高さと幅があるのに見落とすはずはないように思われるので、あるいは後世に 作られたものなのかもしれませんが、釈然としません。また、北側の説明板向かいにも出郭状 のコの字型の土塁と堀がはっきり認められるのですが、これも双方の図ともに記載されていま せん。 この出郭のさらに北には、こちらは『大系』にも載っている2度のクランクをもった空堀があり ます。もとは1周ぐるりと囲って館状の曲輪を形成していたようですが、圏央道の建設によって 半分ほどは削られているようです。大堀山館の主城域とは少し離れてほぼ独立した状態にも かかわらず、『大系』で別郭のように扱われているのは、『記稿』に「古跡三ケ所」とあるところ、 大堀山の東西に「某館(1)」「某館(2)」と仮に名づけられた2つの城館跡がすでに認められて いるからでしょう。ですが、下広谷周辺には3か所にとどまらない複数の城館跡が見つかって います。この別郭についても、実際には「某館(4)」とでも名付けるべき広大な城郭群の一翼 だったのではないかと推測されます。 これほどの規模と遺構を残す大堀山館ですが、史料にはみられないため、いつ誰が築いた のかは定かではありません。『大系』では武蔵平一揆の乱のころのものと推測していますが、 折れを多用した縄張りの技巧から、さすがにもっと時代を下ったころの城と思われます。 現地説明板にもあるとおり、大堀山城は河越城と鉢形城を結ぶルート上にあることから、 個人的な直感としては、長享の乱に際して明応六年(1497)から足かけ7年にわたって山内 上杉氏が扇谷上杉氏の河越城を包囲した際に、中継拠点として整備したものではないかと 考えつきました。 ですが、大堀山城や某館(2)の縄張りをみると、明らかに北への備えを意識しているため、 逆に扇谷上杉氏が築いたとする見方も成り立つように感じます。そうなると、現地説明板が 仄めかしているように、長禄三年(1459)に始まる五十子の陣に際して古河公方足利成氏の 攻勢に備えるために築かれたか、あるいは長享の乱の前期に川越城と扇谷上杉氏の前線 拠点である菅谷館や松山城を繋ぐポイントとして構築されたものとも推測されます。 いずれにせよ、大堀山館とその周辺の城館は恒常的な在地領主の居城ではなく、一時的 な陣城群とみるべきだろうというのが、大前提としてあるものと考えています。 |
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北側の説明板。 | |
主郭北東隅の神明社。 |
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神明社背後の主郭堀。 | |
主郭を二分する仕切り土塁。 | |
主郭南辺の空堀。 | |
二の郭堀の北東クランク部。 | |
同じく二の郭堀の北西クランク部。 | |
二の郭堀北西部の土橋。 縄張り上、当時のものかは不明。 |
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同じく二の郭堀。 | |
三の郭堀。 | |
北側説明板向かいの出郭状の堀と土塁。 | |
北側別郭のクランク状の堀その1。 | |
その2。 |