真田氏館(さなだし) | |
別称 : 真田館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 真田幸隆か | |
遺構 : 土塁、石塁、虎口 | |
交通 : しなの鉄道/上田交通/長野新幹線上田駅よりバス 「本原」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 真田郷領主真田氏の居館である。真田幸隆(幸綱)によって築かれたとされるが、確証はない。 享保十八年(1733)成立の『滋野世記』によれば、幸隆は海野棟綱の子で、真田氏を称した初代 とされる。ただし、応永七年(1400)の大塔合戦に際し、禰津遠光の配下として「実田」の名があり、 真田氏の初出とみる向きが強い。このことから、真田氏は海野氏と同じ信濃の名族滋野三家の 1つ禰津氏の庶流として、大塔合戦以前に成立していたものと考えられている。また幸隆について は真田頼昌の子ともいわれる。真田氏初期の居館については、松尾古城の麓の日向畑遺跡を 充てる説もあるが、確証はない。 幸隆は、天文十年(1541)の海野平の戦いに敗れ、他の海野一族同様所領を失い上野国へと 落ち延びた。同二十年(1551)、幸隆は武田氏に属して戸石城を奪取し、真田郷の領主に返り 咲いた。真田氏館が幸隆によって築かれたものであるとして、海野平の戦い以前か戸石城奪取 以後のどちらの時期かという問題もある。 いずれにせよ、真田氏館は幸隆以降、信綱・昌幸と3代にわたって真田氏の居館であったもの と考えられている。天正十一年(1583)、昌幸が上田城を築いて居城を移すと、真田氏館は居館 としての使命を終えた。完全に廃された時期については詳らかでない。 <手記> 真田氏館は、真田郷を貫く神川に向かって傾斜する扇状地様のなだらかな斜面上にあります。 北北東には詰城とされる真田本城が、北東にはその支城である天白城があります。 現在、館跡は皇太神社境内となっています。館内部は2段に削平されていて、神社本殿のある 上段に居館が営まれていたとされています。北と南に虎口があり、南が大手、北が搦手とされて います。四周をめぐる土塁がよく残っていて、北には大沢川が隣接して流れています。南東隅の 土塁は隅欠となっていて、ここにも虎口が開かれています。隅欠けの土塁は鬼門除けとしてよく みられるもので、真田氏館においてもそのように考えられているようです。しかし、鬼が出入りする として忌み嫌われる鬼門に、隅欠を施しておきながら出入り口を設けるというのは不自然ですし、 そもそもふつう鬼門は北東を指します。安直に鬼門除けとするには、謎の多い箇所といえます。 また、北西隅には土塁で囲まれた方形の小区画があります。言い伝えでは厩跡とされています が、平成二〜三年(1990〜91)に行われた発掘調査では、厩の存在を裏付けるものは検出でき なかったそうです。同調査では、現在虎口の土塁基部にみることのできる石垣が、かつては外周 土塁全体をめぐる腰巻石垣であったことが明らかとなっています。 さて、真田氏館は幸隆によって築かれたとされていますが、詳しい歴史は明らかになっていま せん。私は、真田氏館は幸隆の旧領復帰後に造営されたものと考えています。海野氏から分か れた真田氏が真田郷を開発したとして、最初に入植するのに相応しい地は、真田本城より北の 神川ないし洗馬川の谷です。実際、今日狭義の真田と呼ばれる集落は、真田本城の北麓にあり ます。 さらに、私が注目しているのは館の立地です。見晴らしのよい扇状地様の、緩やかな傾斜地の 中心付近という選地は、武田氏の居館躑躅ヶ崎館とよく似ています。ただの憶測ですが、幸隆は 武田信玄に仕えた後、躑躅ヶ崎館を訪れて参考とし、新しい館を築いて真田郷を再開発したの ではないでしょうか。 ちなみに、館跡の東には真田氏歴史館があります。老若男女を問わずファンの多い真田氏の 発祥の地に建つ資料館ですから、それなりにお客が多いと思ったのですが、訪問時は世間では 春休みだったというのに、私のほかには1組しかいませんでした。 |
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館跡上段に立つ皇太神社を望む。 | |
南側の大手虎口。 | |
北側の搦手虎口。 | |
南東隅欠にある虎口。 | |
北西隅の土塁に囲まれた方形区画。 | |
北辺の土塁。 | |
西辺の土塁と大沢川。 |