佐生城(さそう)
 別称  : 佐野山城、佐野山館、佐生日吉城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、石垣
 交通  : JR東海道本線能登川駅よりバス
       「佐生」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           『日本城郭大系』や『探訪ブックス[日本の城]』などひと昔前の文献では「佐野山城」として
          紹介され、「佐生城」は別称として掲載されている。佐生城がいつごろ誰に築かれたのかは
          分かっていない。一説には、六角氏の宿老である後藤但馬守賢豊の城と伝わる。ただし、
          後藤氏の居館は遠く離れたところにあるので、同氏の詰城というよりは六角氏の観音寺城
          の守りとして担当を任されていたものと考えられる。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興して六角氏を攻めた際、
          東に1kmほどのところにある和田山城の将兵は、織田軍が箕作城を一晩で落としたことに
          驚き逃散した。佐生城もこのとき落城し、そのまま廃城になったものと思われる。


       <手記>
           観音寺城のある繖山(きぬがさやま)は、上から見るとロブスターのような形をしていて、
          その尻尾の先端部分に築かれているのが佐生城です。瓜生川にかかる新浄土橋の脇に
          ある共同墓地裏手から登城路があり、これに従い緩やかな尾根道を進みます。
           佐生城の特徴は、なんといっても縄張りの単純さに不釣合いな石垣です。ほぼ単郭の城
          でありながら、観音寺城と同等の技術による見事な石垣が、南面を中心にめぐっています。
          このアンバランスな構造から、佐生城は観音寺城と並ぶ謎多き城と見なされています。
           『近江の山城 ベスト50を歩く』では、佐生城はトーチカのような発想で築かれた、十分な
          戦闘能力を有した城であると評しています。しかし、私にはこの城が実際の戦闘にそれほど
          用を成すようにはどうしても思えません。『山城』がいうようなトーチカの役割を求めていたと
          すれば、もっとも恐るべきは敵兵に肉薄されることです。ところが佐生城には、竪堀や堀切
          のような敵兵の接近を抑える防御設備がまったくといってよいほどありません。
           私は、佐生城の石垣は、観音寺城と同じく示威的な目的で築かれたのではないかと考え
          ています。「観音寺城と同じく」という点については、こちらで論説していますのでご参照くだ
          さい。ただしこの場合も、1つ問題があります。それは、街道に面した北東面には石垣が築か
          れていないという点です。もし権威を示したいのなら、街道筋である北東面に第一に石垣を
          積むべきでしょうが、こちらは土塁のままです。この点は、軍事的な面からも未解決の問題
          です。

           
 佐生城南面の石垣。
南西隅の石垣。 
 北面の石垣。
 曲輪内のようす。 


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