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下津井城(しもつい) |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宇喜多秀家 | |
遺構 : 石垣、堀、土塁、虎口、井戸跡 | |
交通 : JR本四備讃線児島駅からバスに乗り、 「下津井城跡入口」下車徒歩10分 |
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<沿革> 備前国主の宇喜多秀家によって、文禄年間(1592〜96)に築かれたとされる。既存の城砦を 拡張したともいわれるが、詳細は定かでない。城主には浮田家久(遠藤秀清)が任じられたと 伝わる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより宇喜多家が改易となり、代わって小早川秀秋が入国 すると、家老の平岡石見守頼勝(重定)が2万石で下津井城主となった。同七年(1602)に秀秋 が早世して小早川家が断絶すると、翌八年(1603)に池田忠継が岡山藩に入封した。下津井 には忠継の叔父・池田長政が3万2千石で入れられ、長政によって下津井城は大改修された。 長政は慶長十二年(1607)に没し、跡を幼少の長明が継いだが、要衝の下津井を治めるのは 困難として内地の平福へ移された。同十四年(1609)、長明の従兄にあたる池田由之(由元)が 利神城から下津井城主へと転じ、同十八年(1613)に叔父の姫路藩主池田輝政が死去すると、 明石へと移り、輝政の嫡男・利隆に仕えた。 その後は池田家家老・荒尾成利が城主となったとが、寛永九年(1632)に池田光仲が鳥取へ 転封となると、これに従った。入れ替わりで利隆の子・光政が鳥取藩から岡山へ入り、由之の子・ 由成が下津井城主に任じられたが、まもなく一国一城令で廃城とされ、由成は北の天城に陣屋 を設けて在所を移した。 <手記> 下津井は岡山県南端の港町で、すぐ東側を瀬戸大橋が通っていることからも分かるように、 本州を四国を結ぶ瀬戸内海の隘路に望んでいます。城は港の真裏の半独立山に築かれており、 主要部は瀬戸大橋架橋記念公園として整備されています。 天守台をもつ本丸を中心に、帯曲輪状の二の丸が1段下を囲い、その東に三の丸、西は堀切 を隔てて西の丸が配置されています。随所に石垣が見られるのですが、二の丸西側など後世に 雑に積み直されたとみられる箇所も少なくありません。そのなかでも、最も見ごたえがあるのが 三の丸南辺の石垣でしょう。また、三の丸東辺の石垣も、短いながら綺麗に残っているようです。 三の丸の東側には堀切を挟んで中の丸があり、城域はさらに東方の尾根筋へと延びてますが、 公園として歩けるのはここまでです。東西にとても細長い城で、秀家以前から城砦があったとも いわれていますが、この山を守るにはかなりの兵力が必要であり、土豪レベルではここに城砦を 築くメリットはあまりないように思われます。下津井地域に中世城館があったとしても、おそらくは 南麓の古下津井城の方がメインだったのではないでしょうか。 |
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南西の西ノ脇台場跡付近から城山を見上げる。 | |
西の丸の石垣跡。 | |
同上。 | |
西の丸跡。 | |
同上。 | |
西の丸から堀切越しに二の丸を望む。 | |
堀切脇の櫓台状地形。 | |
二の丸西側の石垣。 後世の積み直しか。 |
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同上。 | |
二の丸東側下の大手跡。 | |
大手跡のようす。 | |
同上。 | |
本丸の石垣跡。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の城址碑。 | |
天守台。 | |
二の丸跡標柱と説明板。 | |
三の丸北辺石垣。 | |
その下の井戸跡。 | |
三の丸のようす。 | |
三の丸から南西方面の眺望。 | |
同じく南東方面の眺望と瀬戸大橋。 | |
三の丸南辺の石垣。 | |
三の丸東辺の石垣。 | |
三の丸東側の堀切。 | |
中の丸。 | |
おまけ:下津井城跡から鷲羽山ハイランドを望む。 |