八幡山砦(やはたやま)
 別称  : 八幡砦、八幡山城
 分類  : 平山城
 築城者: 岡部氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR東海道本線藤枝駅からバスに乗り、
      「八幡宮前」下車徒歩5分


       <沿革>
           史料や伝承にはみられず、詳細は不明である。


       <手記>
           潮山から延びる尾根の南端に位置し、頂部には青山八幡宮が鎮座しています。東麓から
          参道が付いていて、東尾根伝いの堀底道と、南尾根を回る車道の2ルートがあります。私は
          前者から登って後者を下りたのですが、東尾根には堀切も見られ、また南尾根は車道工事
          ですっかり破壊されているかと思いきや、カーブの先に腰曲輪とみられる平場がありました。
           境内は広いとはいえませんが、本殿裏に土塁がはっきりと残っています。土塁裏には武者
          隠しのような帯曲輪が付随し、背後の尾根筋に堀切などは見られません。西尾根には数段
          の堀切ないし腰曲輪群が認められます。
           八幡山砦については、潮山の反対側には岡部氏の詰城とされる朝日山城があることから、
          一般に岡部氏の支城として築かれたと考えられています。一方で、眼下には東海道が走り、
          真南に田中城があることから、天正七年(1579)に徳川家康が田中城を攻めた際の陣城と
          する見方もあるようです。この説によると、砦の縄張りは田中城を向いているので徳川方の
          陣城と推測され、ここから当目坂を進んで持舟城を攻め落としたと考えているようです。
           ただし、私はこの説に2つの点で疑問があります。まず1つ目は、砦から東海道を北上する
          と宇津ノ谷峠を越えてすぐ丸子・駿府に至るため、むしろ挟撃されてしまう恐れがあるという
          点です。ここから兵を出すのであれば、わざわざ当目坂を回らずとも、直接丸子城を攻めた
          方が合理的でしょう。
           2つ目は、そもそも山筋が南を向いているのだから、徳川氏ならずとも誰が築いたところで
          田中城を向いた縄張りになるのは当然だろうという点です。岡部氏の支砦だったとしても、
          南向きの縄張りでなんらおかしいことはないわけで、構造が南を向いているから徳川方の
          陣城であるというのは、結論ありきの暴論と断ぜざるを得ないと思われます。
           さらにいえば、青山八幡神社は田中城の守護神として歴代の田中藩主に崇拝されたとの
          ことなので、むしろ田中城の支砦だったという第3の仮説さえ成り立つでしょう。実際のところ、
          八幡山砦の来歴と使用目的については留保が必要であるというのが前提としてあるべきと
          考えられます。

           
 東尾根の堀底道。
 途中に堀切があります。
青山八幡神社の山門と奥に拝殿。 
 本殿裏の土塁。
同上。 
 土塁裏の武者隠し状の帯曲輪。
主郭サイドの切岸面。 
 西尾根の曲輪群ないし堀切。
南尾根の腰曲輪跡とみられる平場。 
 南尾根からの眺望。
 左手の煙突奥に見えるのが方ノ上城跡


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